わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

「現実」

「現実」(・∀・)

みなさんが「現実」と思うもの、それは心で作られた概念にすぎません。実は恐れや不安、欲望から作られた想像の産物なのです。

よく、

「現実を見ろ」

とか言います。そして、その「現実」から目を逸らすことを、

「現実逃避」

とか言います(^∀^)

けれど、よくよく観察してみるに、この「現実」というのは、

「自分はこの社会の中の一員で、ひとりの人間なのだ」

と、思わないとことには「現実」もありません。つまり、人格を持ったひとりの人間、身体と心を持ったひとりの人間なのだと思っていないことには、

「現実」もない(・∀・)

ってことに気づきます。気づきません?

よーするに、『意識』と「心」がごっちゃになっているときしか、「現実」もないのです。ごっちゃになることを「同一視」と言います。『意識』と身体や心を同一視しているからこそ、「現実」もあるわけで、なので、「現実」は想像の産物と言えるんです。
(^ω^)
そして、私たちはこの「現実」にものすごいエネルギーを注ぎ込んで、「現実」を維持しています。

このエネルギーを注ぐことを止めちゃうわけです。すると「現実」はそれ以上

助長されません(・∀・)

エネルギーを注ぐのを止めるとは、「現実」でなく、

「事実」

を、ただ見る。ということです。「事実をただ事実として見る」それだけです。

「私は孤独だ」ではなく、「家族や友人がいない。以上」
「私はお金がない」ではなく、「いま、100円がある。以上」
「私は被害者だ」ではなく、「殴られた。痛い。以上」

こんな感じです。すると「現実」を助長するのに使われていたエネルギーが元に戻り始めます。結果的に目に映る世界も変容し始めるんです。

ただ、

「事実をただ事実として見る」

って、「心」からすると、とてもつまらなく冷たいものに感じます。ちっともおもしろくありません。恐怖すらわきます。なので、そんな見方を拒絶し、すぐ同一視に戻りたがります。でも、それを

無視してください( ̄ー ̄)

「現実」を助長しないとは、没頭していた社会のゲームを放棄することとも言えますので、そりゃ「心」は、やめてくれって言いますよ。でも、それに耐えてください。


えーと、今日はまとまんないな。
で、結局、何が言いたいかと言うと、

「現実」と「事実」はちがうんです

あなたが「現実」と思っているものは、「心」を通った想像の産物で、

「事実」ではありません

「事実」だけ見て、「現実」を助長しない。

これだけで何かが勝手に変わってくるんですよ。いろいろ変わりますね。

ただ、クソつまらなくて、おもしろくもなんともない、たくさんの「事実」を

「見てるだけー」(・∀・)

して、通り過ぎて行かないといけませんけどね。
(´∀`)


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コブシ咲く♪
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@兵庫県姫路市

大混乱

『意識』の中に「心」が現れているのであって、

「心」の中に『意識』があるのではありません。

(・∀・)

このことを理解しているだけで、自分自身の混乱と世の中の混乱から抜け出せます。

本当に、この一点を、理解するだけでいいのです。
(^ω^)


「心」は思考や感情が慌ただしく動きまわっている何かです。実体があるのかないのかも不明、よくわかりません。私ウリエルも「心ってナニ?」と訊かれても、うまく答えられません。価値観とか条件づけとかも、「心」の一部なんでしょう。自我というのも「心」の一部なんでしょう。

でも、『意識』は「心」が描かれる紙であり、背景です。

「心」が現れている「場所」です

これは明瞭です(^ω^)

『静寂』で『空』です。実体はありませんが、たしかに存在します。ただ『在る』としか言いようがありません。間違いなく『在る』とわかります。

『無』があります

そして、この『意識』が、『無』のくせして、なぜかすべてを見ています。この世界を見ているし、身体の感覚、五感も見ているし、「心」も見ています。ぜんぶ同時に見ています。これが

「気づき」(・∀・)

です。これだけなんです。


世の中の人って、だいたい『意識』と「心」がごっちゃになっているんです。

『意識』=「心」

だと思い込んでいるんです。仏教や心理学のエライ先生でも、ごっちゃになっています。スピリチュアルのスピーカーでもごっちゃになっている人たくさんいます。


この本、この意見、この文章、『意識』と「心」がごっちゃになっているなと思ったら、もう読まないでください。(当ブログの過去記事も含めて)
おそらく、本屋さんの本棚のほとんどの本もごっちゃになっています(笑)
もうこの世の中、

大混乱(^ω^)



「心」は

「精神」、「精神世界」

と置き換えても同じです。「精神」とか「精神世界」も『意識』の中の現われにすぎません。「スピリチュアル」も、この『意識』の中の現われです。

以上(`・ω・´)


今日は時間が無いので(´-ω-`)
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場所不明のカネ
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どこの寺だろう?


万華鏡

『意識』の中に「心」が現れているのであって、

「心」の中に『意識』があるのではありません。

(・∀・)ノ


さて。『意識』の中に現れている無数のものは、常に揺れ動き変化しています。安定しているものはありません。この世界は、

絶対的に不安定

です。こんなに不安定に動き続けるこの世界ですので、この中で安心、安定を獲得することは、

不可能です(`-ω-´)

しかし、私たちの「心」は、常に安心、安定を獲得することを求めます。それで、いっときは安心、安定を見ることはできますが、それを持続することは、

不可能です(`-ω-´)

そもそも「心」だって、不安定なのですから。


『意識』の中に現れているもの、身体、心、そして、この世界のあらゆるものはすべて不安定です。ブッダも「諸行無常」という、すごい悟りワードを残しました。安心、安定すら不変ではありません。それすら不安定に揺れ動くものなのです。
(´・ω・`)

でもね、「諸行無常」、つまり「絶対的に不安定」

あらゆるものが不安定に揺れ動いていないと、

「調和」

も、できないんですよ。あらゆるものが不安定で決まっていない。変化することをやめません。だからこそ、「調和」もしているんです。「調和」するには、いろんなものが不安定でないといけないということです。まるで、

万華鏡(・∀・)

です。『意識』の中に現れているこの世界は万華鏡。

これ、固定されて安定したら万華鏡にならんですよ。くっそつまらん、ただの筒です。
(^ω^)


それに気づけば、「絶対的に不安定」に「安心」できるのです。

安心、安定しているものなどどこにもない。「絶対的に不安定」

だから「安心」なんですよ。



ネコの手も借りたい(・∀・)つ
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なんの花だろう?
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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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