わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

「知らない」(´∀`)ノ

あまりにも暑すぎるので、お店を休んでフラリと出かけておりました。山陰地方です。

しかし、どこ行っても暑いことには変わりない。バイクなので冷房ないし、常に炎天下だし。
( ̄ー ̄)


旅のよいところは、『いま』にいることが自ずと多くなることだと思います。知らない土地に行くわけですから、その場所に対する知識がありません。過去の思い出もありません。どうしても、目の前の『いま』から情報を収集せざるを得なくなるわけです。
(・∀・)

大げさな言い方をすると、それは自我にとって、ちょっとした「危機」なわけです。何を見ようか、何を食べようかというのも、それがどこにあるのか、そこにどうやって行けばよいのかという知識がないわけです。そのとき、そのときの、『いま』から判断していくしかない。

すると、思考にはない、

『智慧』、『叡智』

が出現し、それに触れ自ずと従うことになります。
(´∀`)

こうやって書くと、すごい能力のように感じてしまいますが、みなさんが無意識にしていることなんですよ。ガイドブックや地図を見ながら、こことあそこに行って、それからこれを食べてみようと、いろいろ考えているその時間が、もう『智慧』に照らされているんです。

よく注意して見てみると、日常の自分とはちがう自分になっていると思います。とりあえず、それを考えているとき、お決まりの思考パターンは出てきません。出て来ても通用しないわけですから。結果的に常に抱えている「こだわり」にかまうことがおざなりになる。すると『真実』の自分がより出現しやすくなるってことです。
(^∀^)

旅行すると、気分転換やストレス解消になったり、旅先でちょっと大胆になったりするのは、そういう仕組みなんだとウリエルは認識しております。別に悩みが解決してないのに、気持ちがなんかスッキリしたりもしますよね。どーでもよくなったりします。

別にわざわざ遠いところに行かなくても、家の近所にも行ったことが無い場所ってあるでしょう? いつもは通らない道とか。ちょっとそこ行くだけで、知らなかった自分とか、何かに気づくこともきっとありますよ。


そのときに大事なのは、なるべく

オープンでいること(・∀・)

「知らない」という「危機」に対して、オープンでいることです。「知らない」を不安や恐怖でなく、

よろこび(´∀`)

と、受け止めることです。「知らない」は祝福なんです。
(^∀^)


ただ残念なのは、今は「スマホ」ってものがあって、「知らない」をすぐ無くしてしまうことができるんですよね。インターネットで事前に調べることもできてしまう。こうなると「知らない」の出現機会すらなくなってしまう。
「ナビ」ってのも「知らない」を即座に消滅させますね。

ホントはみなさん、五感と直感、すなわち『智慧』だけで、どこにでも行けて何でもできるのに、そんな能力があったことも忘れてしまって、ひたすらその能力を退化させている感ありますね。
道に迷ったとき、思考でなく「音」や「におい」、そして雰囲気を感じる「肌感覚」を頼りにしていたことなんて、みんな忘れてしまってませんか? それらが合わさって「直感」になっているんですよ。そして、すなわちそれが『智慧』なのです。


別に旅だけに限りません。

「知らない」は「よろこび」

とだけ認識しておくといいんです。そして、いろんな「知らない」、新奇体験ですね。そこに身を置いてみることに積極的になってみてください。

知らない人に会うでもいいし、
知らないものにふれてみるのもいい。

ちょっぴり不安を感じるものがいいですね。ごくごく小さな「危機」に身を委ねてみるわけです。

ときには大きな「危機」に、飲み込まれるかもしれません。そのときも、

「知らない」は「よろこび」

と、体感的にわかっていると、適切な対処ができるもんです。「危機」に恐れおののいて「知らない」を打ち消そうとばかりしていては、混乱は深まりますよ。
(^∀^)


自分は「知らない」んだ(・∀・)

まず、ここに立ち止まるだけなんです。「知らない」にオープンになってください。知る必要があるなら自ずと知るだろうし、別に知らなくてもいいなら知らないままでいいのだろう。
で、いいんです。


すると『智慧』の光に照らされますよ。その感覚がわかってきます。


「知らない」は、ギフトです。

そして、『愛』です。

(´∀`)ノ


今回の旅のベストショットかな(・∀・)
IMG_2269
角島大橋@山口県下関市

「真の問い」(`-ω-´)

えー、暑すぎのため、肉体および思考の活動が極めて低下しておるウリエルでっす。
(`-ω-´)

とーちゃんが亡くなる前後のいろいろな疲れも出て来ているのか、ここ二日、いつも以上に寝ておりました。

というわけで、お仕事もしばらくお休みすることに。どーせ、売れないし。暑すぎで。ここは心と身体を休めましょう。
(`-ω-´)

ただクソ暑いというだけで、みなさんも、いつも以上に身心に負荷がかかっていると思います。どうか無理せずに過ごしてください。
(`-ω-´)


さて、コレと言って書くことも思いつかないのですが、

日常の中で、ふと、

「根本的に何か間違っているんじゃないか?」

( ・Д・)???

的な疑問、疑念、違和感を感じることがあります。ありませんか?

当たり前すぎて疑うことすらしなかったことが、何かの拍子に、「ちがうんじゃね?」と思うこと。まあ、

「私って、実は私じゃないんじゃね?」
とか、
「この世界って、実はないんじゃね?」

みたいなことです。うまく例えをあげれませんが、しょーゆー感じのこと。当たり前の大前提が崩れてしまうような問いです。もう少し現実に則したことならば、

「働いてお金を稼ぐ」
とか、
「結婚したら家族ができる」
とか、
「年を取って老いる」
とか。

そんな常識とも言えないくらいの、もう子供でも当たり前すぎることが、なんか「ちがうんじゃね?」って、ふと思ってしまうときです。ありませんか?
(´・ω・`)?


そんなふとした突拍子もない「問い」、それ、実は

「真の問い」(・∀・)

なんです。「正しい問い」と言ってもいい。そして、その「問い」が

すでに答えです(・∀・)

「私」は思考レベルでの説明を求めますが、それはできません。思考を超越しておりますので。
(・∀・)

「問い」そのものが答えなわけなのですが、いちおう、その「問い」に対する「お返事」もあるにはあります。でも、それは恩寵としてやって来るので、考えて導き出すことはできません。
私たちはその恩寵にオープンでいることしかできません。恩寵にオープンでいるには、そもそも、「問い」に対してオープンでいる必要があります。
「問い」がそもそも思考「外」から突如現れるわけです。それの答えを思考レベルで説明できるはずがないんです。もし、なんか説明してあるものを見つけたら、

うそっぱち(・∀・)

と、思っていただいて間違いありません。
(^∀^)


オープン、これが「本来の自分」の性質というか、本質なんです。開放性。
どんな思いつきや、ヒラメキも、バカにしたりしないで、それを歓迎して迎え入れ味わってみてください。そもそも、なんの関連もないところから突如として現れるんですから、神秘的だと感じませんか?
(´∀`)


「真の問い」が答えなんです

この言葉の意味がわかるには、思考の説明を無視して、ただオープンでいればわかります。わかろうとしてもわかりません。

では、今回はこんな感じの軽い記事で。
(´∀`)ノ


とーちゃんの納骨も済んだし、「忌明け」
ちょっと出かけてみようかな。
(´∀`)



さて、どーでもいいですが。
痛んでいたネクプフの目ん玉、新しくなりました。
乞うご期待(・∀・)
IMG_2135
@兵庫県姫路市

雑談でーす

あっつい!!!

(ノ`Д´)ノ



ホントに暑いです。(´-ω-`)

こう毎日暑いと何もかも、もうどーーーでもよくなってきました。
(`-ω-´)

というか、これでいいんですけどね。

スピリチュアルに取り組み、この人生をより良くしようなんていう発想、それ自体がもう間違っておるということなのです。ええ、間違ってます。根本的に。
良くしなくていいんです。ハイ。どーでもいいんです。
(`-ω-´)


あなたが「自分」だと、意識的にも無意識にも感じているもの、それが最初から

デタラメ(・∀・)

なんですから。

あなたが人生だと思っているもの、それもただの記憶なんです。『いま』ではありません。そういった記憶が『いま』あるだけで、この『いま』顕われているものとは、とくに関係ないものなんです。顕われているものの中の、ほんの一部にすぎません。

ただ記憶がきれいに連続しておりますので、あたかも時間が流れているように錯覚していますが、実は、事実とは異なるものなんです。

早い話が、作り話の

デタラメ(・∀・)

です。

そのデタラメを、事実だと信じ切ってしまっているのが、あなたです。
(´∀`)

でも、記憶は記憶であっていいんですよ。記憶も大事なパーツなんです。ただ、その使い方が偏っているというだけ。
( ̄ー ̄)
あまりにも、記憶に頼りすぎているというか、意識しすぎているというか。

記憶に偏重していると、新しいものの見方ができません。新しい未知のものは記憶にないです。ただ、記憶をいっさいなくしてものを見ることも、なかなか難しいです。今さら赤ちゃんのようにもなれません。なので、日常のほとんどを、記憶を頼りにしてものを見てしまっているんだと、認識しておいてください。もう99パーセント、記憶というフィルターを通しているんだと、知っておくことが重要です。

例えば、石につまずいたとき、「あっ!」となります。そして、次の瞬間には、

「つまずいた!」( ;゚д゚)!

と、思います。この「つまずいた!」という思考が、すでに記憶なんですよ。記憶なしで、事実をただ事実として見ていたのは、「あっ!」の、0.1秒くらいでしかありません。私たちは、もうほとんどと言っていいほど、記憶というフィルターなしでものを見ることができなくなっているのです。そのことに気づいておくことが重要なんです。気づいておくだけです。無理に記憶を排除しようとしてはいけませんよ。

あまりにも、もうホントに何から何まで記憶に偏重しているんだなと気づいて、そのことに驚き、うーん…… と、唸るだけでいいんです。
(`-ω-´)

そもそも、思考の99パーセントが記憶ですからね。しょうがないと言えば、しょうがないです。
私たちはそういうもんだと認めることしかできないです。


でも、ちゃんとそういうもんだと認識しておくことで、ふとした何かの拍子に、今までの記憶を通して見ていた世界とは、まるでちがう別の世界が目の前に広がるんですよ。それは、ほんの一瞬の束の間かもしれません。チラッと垣間見るだけかもしれません。
でも、自分の意志で、その世界を見ることはできません。意思がもう記憶ですから(笑)

その記憶を通さずに見る世界は、記憶にある世界と同じなのにぜんぜん違うんです。
(^ω^)

私ウリエルがたまたま見た世界は、今いるところが日本でも地球でもないような感覚です。かといって霊界とかそんなところでもない。おっそろしく現実。今、目の前にあるチョー当たり前の現実しかない世界。

そして、そのチョー現実では、今まで生きてきて知っていたことが、まるで役に立たないとはっきりとわかりました。まさに、

デタラメ(・∀・)

だった。

そして、これから知ることも役に立たない。常に新しく変わって行くから。もうお手あげ。そんな世界。それを瞬間的に全身でブワっと感じました。

まあ、それも、もう記憶になっているのですが。
(´∀`)


今、頭の中にあるもの、今まで知ってきたことが、ぜーんぶ

デタラメ(・∀・)

と、ときどき思ってみてください。そのデタラメをもとに考えたり、予測したり、判断したり、計画しているんだなと思ってみてください。


すると、どんな感じがします?
(´∀`)



さて、とーちゃんが死んでもう一ヶ月過ぎたかぁ。早いな。
車イス借りて、とーちゃんと病院をコッソリ抜け出したことがあって。
(・∀・)
そんとき、とーちゃん、このせせらぎを子供のような瞳でじーっと見てた。

人は死ぬ前、この世界がとても美しく見える
「死者の目」
になると聞いたことがあります。
とーちゃんもう長くないと、ウリエルは直感で思いました。

やっぱり十日後に去りました。

どんなふうに見えてたのかなぁ?
IMG_2111
@兵庫県姫路市


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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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