「私」っていうヤツは、いつも何かを「しよう」とします。

何もしないでいることができません。何もしないでいろと言うと、「何もしないをしよう」とします。
(´∀`)
まったく困ったもんなのですが、「私」ってそういうもんなので、仕方ないです。


もちろん、『ありのまま』でいなさいと言うと、『ありのまま』でいようとします。でも、何かをしよう、何かでいようとしては、『ありのまま』とは言えないのです。

「じゃあ、いったいどうすればいいの?」

……(´・ω・`)

私は困惑してしまいます。「どうすれば?」が、すでに何かを「しよう」としているのですから、こりゃもう、どうすることもできませんね。
(´∀`)

『ありのまま』でいることは、しようとしてもできません。

それでいいんですよ。

それが『ありのまま』なのですから。


思考というものは、何もしないでいることができません。何もしないでいるとき、それは無思考の状態です。その無思考の状態でいることが、すなわち『ありのまま』なのです。が、思考で無思考の状態を作り出すなんて、何が何だかわかりませんよね。
(´・ω・`)

こうすればいい、ああすればいい、こうしなければいい、ああしなければいい、

思考というのは、この「何かをする」という次元を超えることができません。しかし、この「する」という次元を超えたところに、『ありのまま』があり、そして『愛』が、『智慧』が溢れているのです。

どうやって、「する」を超えて行きましょう?
(´・ω・`)
でも、使える道具は思考しかないんですよ。そこで、いにしえのたくさんの人たちが、

ゆるす
手放す
受け入れる

という、なんとか思考を使って、思考を超えて行く方法を編み出してきたわけです。

さあ、でも、そんな思考を使った思考を超えて行く方法を、ほとんどの人が

使い方を間違えてしまっている

ことに気づいてください。
(´・ω・`)?


何かが起こった。それを受け入れることができない「私」がいた。これはイカン! 受け入れなければならない。よし、受け入れよう。

拒絶している「私」がいる。ゆるせない。これはイカン! ゆるそう。

まあ、これもあながち間違いではないんですが、これでは、肯定と否定という両端の間を行ったり来たりしているだけで、ひとつの次元を超えてないんです。永遠の行ったり来たりになるんですよね。グルグル同じところを廻ります。

ゆるせない人がいるなら、ゆるすのはその人ではありません。

ゆるせない自分

を、ゆるすんですよ(・∀・)

受け入れられないことが起こった。これを無理やり受け入れるのではありません。受け入れるのは、

受け入れられない自分

ですよ(・∀・)

ここで、初めてグルグル廻っている場所から、ふわっと抜けるきっかけが起こります。外側に向いていた視線が、どこにも焦点がなくなってさまよう感じになりませんか?
なーんも拒絶してない、拒否してない状態になります。それが『ありのまま』の自分なのですよ。
でも、その状態になったからと言って、何も起きません。するとたちまち思考は、

「こんなのでいいのか?」

と、言い出しますが、いいんです、それで。
(´∀`)

この『いま』に、なーんも拒絶してなきゃそれでいいんです。どんなに醜い感情や思考が湧いてきても、それらもぜーんぶゆるし、受け入れればいいんです。『ありのまま』というのは、なーんも、

拒絶していない

とも言えます。


そして、なーんも拒絶してない状態なんて、生きてりゃ絶対に来ないこともだんだんわかってきます。それも、

拒絶しない(・∀・)

ですね(´∀`)


あらゆるものを拒絶しない、拒絶しない、拒絶しない……
結果的に、ゆるして、手放して、受け入れていくことになります。
そんなことしているうちに、「恩寵」の領域に、人は勝手に行ってしまうんですよ。
(´∀`)


佐渡島に行ってみた(・∀・)
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@新潟県佐渡市