さて(・∀・)

久しぶりに記事を書こう。


この心や身体をとりまくこの世界では、常にいろんなことが起こって、そのたびに心や身体はそれらに巻き込まれます。そして、「私」はこれを「問題だ」と判断し、それを解決しようといろいろなこと試みます。

けれど、頭の中でいろいろこねまわして作り出した「意見」で、その問題を解決することはできません。できないんですよ。知らなかったでしょう?

ときどき、頭で考えて解決することもありますが、それは実は、あなたが考えて導き出した答えや決断ではありません。どこからともなくやってきた

「ひらめき」

なのです。どこからやってきかは不明。不明なんですよ。
(´∀`)


考えて答えを出そうとする「私」がいなくなったとき、自然に正しい行動が生まれます。だから、

「そのまま」

でいなさいと、言うのです。自然に生まれた、その正しい行動が「ひらめき」なのです。


「そのまま」でいるには、この今に起こっている事実を、ただ事実として見なければなりません。事実を事実として見るには、すべてを受け入れなければなりません。すべてを受け入れるには、あらゆる対立や抵抗を手放さなければなりません。
でも、受け入れられないのなら、受け入れられないというのが事実ですので、それを受け入れればよいだけです。対立や抵抗を手放せないのなら、それが事実ですので、それを受け入れればよいだけです。
今起こっている事実を、他のものより好んだり嫌ったりすることがなくなったとき、すべてが

「ととのう」

状態になります。「ととのう」は「整う」ではなく、「調う」とい字を使います。調和するという意味です。

というか、ずーっと調っているのですが、それを「あーでもない、こーでもない」と勝手に大騒ぎしているだけなんですが。
(´∀`)
だから、いろんなことが起こって、それに巻き込まれても、放っておけばよいのです。「そのまま」にしておけばいいのです。
慣れないうちはなんだかやりにくいですが、コツがわかってくると、なーんてことありません。コツをつかむだけ。ラクチンですよ。


さて(・∀・)

その放置している自分は誰ですか?

ただ巻き込まれている心や身体を「見てるだけー」の、

「見ているヤツ」

ですよね。それが「本来の自分」なんですよ。「気づき」なんです。そして、それが『愛』だなんて、思考にはとんとわからんですけどね。思考が思っている『愛』とは、ぜんぜん違うので。

その「見ているヤツ」が「気づき」で「本来の自分」だと知ることが「悟り」です。「見ているヤツ」は観照者で、それはただの意識で「空」です。ただ「在る」としか言えない、言葉では言い表せない何か。
私たちはそれを知るだけでよいのです。衝撃的な神秘体験や、至福の体験なんて別にいらないし、なくてもいいんですよ。
(´∀`)

一気にわからなくてもいいんです。なーんとなく、だんだんわかってくれば。

そして常に調っているし、何が起きても調うとわかれば、それでいいのです。



雲の上の人になってみた(・∀・)
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乗鞍岳@岐阜県高山市