分離した「私」は、

「対立」

が、大好きです(・∀・)

自分と誰かや、何かと何かを「対立」させておかないと、「私」という分離を保てないし、「人生」という物語も維持できません。だけど、それはただの思考の思い込みであり、実際には「対立」はどこにもありません。

このことを知っておいてください(・∀・)


水戸のご老公が悪いヤツらに出会わなかったら、その回は物語になりません。与党と野党が「対立」していないと、選挙にもなりません。
テレビやインターネットの情報は「対立」であふれています。分離した「私」は、無意識にそれに飛びつきます。「私」は「対立」が大好きですから。

そして日常の生活の中も「対立」だらけです。私たちはあまりにも「対立」が好きすぎて、それがもう分離を維持するための、単なる「私」の思い込みだということにすら気づかなくなっています。
(´・ω・`)

正論を振りかざして誰かを批判したり、誰かより優れていると感じたとき、「私」はある種の麻薬的な快感をおぼえるのです。マウントを取ると気持ちいのです。そう、

「対立」は麻薬です( ・Д・)

私たちは「対立中毒」になっています。「対立依存症」の患者です。人を批判したり論破したりするときに、気持ちいい何かを感じているでしょう? 
さらに「対立」するものが何もないと、無理に作り出そうとしていたりしませんか?
依存症を治療するには、まず本人が依存症であることに気づかなければ治せません。だから、自覚することはとても重要です。
(`・ω・´)


オオカミがシカを殺して食べます。「対立依存症」のニンゲンは、それをつい「対立」の構造で見てしまいます。オオカミが強者でシカが弱者、善良で憐れなシカと、憎き悪者のオオカミ。
しかし実際は、シカがあまりにも増えすぎると、食べる草がなくなってしまうのです。だから適度に仲間がオオカミに食べられないと、シカは全滅してしまうのです。なので、きっとシカはこういうでしょう。

「いいんですこれで。何も問題ありません。別にオオカミと対立してません。持ちつ持たれつなんです」

と。オオカミも増えすぎてシカを食べすぎると、シカがいなくなって自分たちが飢えてしまいます。だから、適度なオオカミの数に調整されます。この構図のどこにも「対立」なんてありませんよね。むしろ「調和」していると思いませんか?
(・∀・)


「対立」に意識をフォーカスしているうちは、私たちは分離しています。物質界に囚われていると言っていいです。私たちは「対立」が好きすぎるので、無意識にそこに囚われてしまいます。このフォーカスしてしまっていることに気づいたら、ただちにフォーカスをぼやけせてください。

「どっちでもいいや」(´∀`)

って。

キミの言ってることもきっと正しいんだよ
どっちが勝っても負けても、どっちでもいいじゃないか

あの人にもきっといいところはある
自分があの人より正しいとか優っているとは言い切れない
どっちもどっちじゃないか

「対立」に没頭するのをやめて、もっと広い視野を持ってください。すると人間世界はいろんなものが「対立」しあって、それが見事に「調和」していることが見えてくるはずです。オオカミとシカのように。

これはまさしく神秘です。神聖なバランスで見事に釣り合っているのです。「かみわざ」と言わずしてなんと言いましょう。そして、私たちはこの「対立」から生じる様々な物語を、ただゲームのように楽しんでいるだけなのです。

いろんな「対立」のコントラストの中を、ただ流されて行くだけ。それが「人生」

そして、結局は、

どんな人生もいっしょ(・∀・)

なのです。


いろんなものが「対立」し合って「調和」が生まれます。そもそも「対立」がないと「調和」もないんです。そして「対立依存症」になって楽しんでいます。それが楽しいのであって、勝ち負けや、正しいや間違いのどちらかに決定すること自体に意味はありません。そのことに気づいてしまったら、美しい「調和」がそこにあります。みーんな持ちつ持たれつです。そこにはもう分離はありません。

なかなか、おもしろいですよ。

この物質界、ニンゲン世界って。
(´∀`)


「どっちでもいいや」(´∀`)

このチャランポランな響きの言葉は、実は魔法の言葉です。

いつでもどこでも、一日何回も使ってください。



大阪の景色でも貼っとこ。
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