ほとんどの人が、ちょっとした
かんちがい(・∀・)
を、しているだけです。
「本来の自分」も「私」だと
(´∀`)
「本来の自分」はどこをどれだけ探しても、決して見つかりません。当たり前です。自分は自分で、ここにしかいないからです。探している本人が探しているものなんで。
(・∀・)
あなたは今、自分が何を考えているか見ることができます。ということは、その考えていることは自分ではないということです。自分じゃないから見れるんです。
それから「私の考え」と言ったりしますね。ということは、その考えは「私」でもありません。その考えが「私」だったら、「私の考え」とは言えません。
あなたは自分の感情も見ることができます。「いま怒っている」とか、「こんなにうれしいなんて!」とか。自分の感情も見れます。感情も自分じゃないから、見ることができるんです。
もちろん、感情も「私の感情」とか「私の気持ち」、「私の心」とか言いますので、感情も「私」ではありません。
(・∀・)
ところで、そのへんの物体ならば身体の「目」で見るわけですが、考えや感情は、いったい何で見ているのでしょう?
何で見てるんですか?
何で見てるんだろう……(´・ω・`)
何で見てるかわからないけど、確かに見ています。
ただ「見ている」だけがある
そんな感じですよね。そのただ「見ている」、自分で自分を「見ている」、その「見ている」、
えーと、それが
「本来の自分」でっせ(・∀・)ノ
それ「私」じゃありません。それが「本来の自分」です。それが「気づき」とか言うヤツです。
以上。おわり(´∀`)
「見ている」は、取り出すことも指し示すこともできませんね。自分自身が「見ている」に気づくことが精一杯。それ以上はできません。だから「気づきがそれ自体に気づくのです」、みたいな、わけわかんない言い回しになっちゃうのです。
んで、そのただ「見ている」が本当の自分、「本来の自分」なんですよ。誰が見ているのかはわかりません。自分なんだけどわかりません。確かに自分で間違いないんだけど、その正体は不明なので、以前は『誰だかわからない』さんと呼んだりしてました。わからないけど、自分です。モロ自分です。メチャクチャ自分で自分以外の何者でもありません。
でー(・∀・)
この「見ている」が、この身体、肉体の中に閉じ込められている。または頭の中、思考の中の産物だと、多くの人が思いこんでいるわけです。この思い込みが「分離」です。この「見ている」も、「私」という個人の「一部」だと思いこんでいるんですよ。
よーく、注意してくださいよ。
この「見ている」の中に、
ぜーんぶあるでしょ?(・∀・)
そのへんにいる人も、木も建物も空も、あらゆる景色をぜーんぶ「見ている」でしょ?
それ、肉眼で、身体についている「目」で見ているような気になっていただけで、実は思考や感情を見るときと同じもので見ていませんか?
肉眼の「目」をつむると、何も見えなくなる。
のでは、ありません。肉眼の「目」をつむると、
真っ黒が見えるんです
その真っ黒を「見ている」、その「見ている」が「本来の自分」ですよ。思考や感情を見るときと同じ「見ている」です。
目を開けると、再び目の前の景色が見えます。でも、その景色、肉眼で見ているんじゃないんですよ。真っ黒を見ていた「見ている」が見ているんですよ。肉眼に入ってきた情報を「見ている」
その「見ている」は、肉眼に入ってくる光景も、頭の中の思考も、心に起こる感情も、いっぺんに見ているんです。さらには体に何かが触れた感覚とかも見ている。音も見ている。味も見ている。ぜーんぶ同時にいっぺんに見ていますよ。それが
「本来の自分」
です。
それ、「私」じゃないんです!
だって、「私」のすべてを、
見ることができるでしょう?
以上。
もいちど、おわり(´∀`)ノ
花手水(・∀・)
日吉大社@滋賀県大津市
かんちがい(・∀・)
を、しているだけです。
「本来の自分」も「私」だと
(´∀`)
「本来の自分」はどこをどれだけ探しても、決して見つかりません。当たり前です。自分は自分で、ここにしかいないからです。探している本人が探しているものなんで。
(・∀・)
あなたは今、自分が何を考えているか見ることができます。ということは、その考えていることは自分ではないということです。自分じゃないから見れるんです。
それから「私の考え」と言ったりしますね。ということは、その考えは「私」でもありません。その考えが「私」だったら、「私の考え」とは言えません。
あなたは自分の感情も見ることができます。「いま怒っている」とか、「こんなにうれしいなんて!」とか。自分の感情も見れます。感情も自分じゃないから、見ることができるんです。
もちろん、感情も「私の感情」とか「私の気持ち」、「私の心」とか言いますので、感情も「私」ではありません。
(・∀・)
ところで、そのへんの物体ならば身体の「目」で見るわけですが、考えや感情は、いったい何で見ているのでしょう?
何で見てるんですか?
何で見てるんだろう……(´・ω・`)
何で見てるかわからないけど、確かに見ています。
ただ「見ている」だけがある
そんな感じですよね。そのただ「見ている」、自分で自分を「見ている」、その「見ている」、
えーと、それが
「本来の自分」でっせ(・∀・)ノ
それ「私」じゃありません。それが「本来の自分」です。それが「気づき」とか言うヤツです。
以上。おわり(´∀`)
「見ている」は、取り出すことも指し示すこともできませんね。自分自身が「見ている」に気づくことが精一杯。それ以上はできません。だから「気づきがそれ自体に気づくのです」、みたいな、わけわかんない言い回しになっちゃうのです。
んで、そのただ「見ている」が本当の自分、「本来の自分」なんですよ。誰が見ているのかはわかりません。自分なんだけどわかりません。確かに自分で間違いないんだけど、その正体は不明なので、以前は『誰だかわからない』さんと呼んだりしてました。わからないけど、自分です。モロ自分です。メチャクチャ自分で自分以外の何者でもありません。
でー(・∀・)
この「見ている」が、この身体、肉体の中に閉じ込められている。または頭の中、思考の中の産物だと、多くの人が思いこんでいるわけです。この思い込みが「分離」です。この「見ている」も、「私」という個人の「一部」だと思いこんでいるんですよ。
よーく、注意してくださいよ。
この「見ている」の中に、
ぜーんぶあるでしょ?(・∀・)
そのへんにいる人も、木も建物も空も、あらゆる景色をぜーんぶ「見ている」でしょ?
それ、肉眼で、身体についている「目」で見ているような気になっていただけで、実は思考や感情を見るときと同じもので見ていませんか?
肉眼の「目」をつむると、何も見えなくなる。
のでは、ありません。肉眼の「目」をつむると、
真っ黒が見えるんです
その真っ黒を「見ている」、その「見ている」が「本来の自分」ですよ。思考や感情を見るときと同じ「見ている」です。
目を開けると、再び目の前の景色が見えます。でも、その景色、肉眼で見ているんじゃないんですよ。真っ黒を見ていた「見ている」が見ているんですよ。肉眼に入ってきた情報を「見ている」
その「見ている」は、肉眼に入ってくる光景も、頭の中の思考も、心に起こる感情も、いっぺんに見ているんです。さらには体に何かが触れた感覚とかも見ている。音も見ている。味も見ている。ぜーんぶ同時にいっぺんに見ていますよ。それが
「本来の自分」
です。
それ、「私」じゃないんです!
だって、「私」のすべてを、
見ることができるでしょう?
以上。
もいちど、おわり(´∀`)ノ
花手水(・∀・)
日吉大社@滋賀県大津市
現実とか継続している悩みだと思っている様々が、たとえば料理などに深く集中すると、その瞬間に消えてしまって静かなのにふと気づいて、「問題はただの空想なのかな?」と不思議に感じる瞬間はあります。
たまーーーーにね。ほんとにたまに。(笑)
笑うウリエル
がしました