人生が物語ならば、その語り手は

「私」

です( ・Д・)


どんなに物語を書き変えても、物語は物語なわけで、「つくりばなし」には変わりません。

USO800(`・ω・´)ノ

幸福で豊かな物語にしようが、悟りを得て、それを体現する物語にしようが、それは『真実』ではありません。「つくりばなし」が『真実』になることはないのです。

どんな人生も、いままであった過去の経験、それから、これから起こるであろう未来のこと、ぜーんぶ「私」が語る物語、

「つくりばなし」(・∀・)ノ

だったのです。このことに気づくのが「気づき」であり、「目覚め」です。


多くの人は、この「つくりばなし」に興味がありすぎて、これを失ってしまうことに恐怖を覚えます。自分の人生に興味がないなんて人としておかしいし、そんなことあり得ないと思っているわけです。
(´・ω・`)

でも、あるんですよ(´∀`)ノ



「つくりばなし」から離れてしまうと、『真実』だけが取り残されます。これを言葉では表現できません。無理して言葉にしてしまうと、また「つくりばなし」になってしまいます。ただ、

『無私』

とか、

『無我』

としか言いようがありません。

『無私の人』というと、「私」は自己犠牲的で献身的なイメージを持ちますが、そうではありません。『無私の人』は犠牲にする自己もなければ、世のため人のために献身する、その自分自身もないのです。というか、世も人もないのです。
すると、「私」はただ自分勝手な人、なーんに対しても関心を持たない人というイメージを持ちますが、それもまた違います。『無私の人』は、自分勝手にふるまう自分がないのです。また、関心を持つ対象もないのです。すべてがただ「ひとつ」なのです。

実は、これが

「思いやり」



「慈愛」

の行為になってしまうんです(´∀`)


ハイ、「私」がいくら考えてもわかんないですよね。つまり、

「思いやり」にあふれる人になるにはどうすればよいですか?

と、問われると、

自分の人生が「つくりばなし」だと気づくこと

と、なるんです。私たちの最も深いところにある感情は、ただ『愛』です。無条件の『愛』、無私の『愛』ですから。だから『無私の人』は何もしなくても、「思いやり」と「慈愛」にあふれるてしまうのです。


そして、私たちはこの根底にある無条件の『愛』に、遅かれ早かれ気づきます。この物語がどんなものになろうと、不変である『愛』を知ることになります。そして、それを知ったとき、すべてが根底からひっくり返る。

(´∀`)

なので、いつまでも物語にしがみつかないで。

どうなってもいいんですよ、そんな「つくりばなし」

なーんの価値もないんですから。


どうってことないこの橋が(・∀・)
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あの森高千里の「渡良瀬橋」(・∀・)
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こんなものまである(´・ω・`)
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@栃木県足利市