台風、来てます、来てます。絶賛通過中。
( ̄ー ̄)

さて、軽い記事を書きましょう。書くこと思いつかないので。
(・∀・)ノ


「人生」という物語、これを体験して、味わい、楽しむために、この世界がある。これが、

「種明かし」(・∀・)

です。たったこれだけのことだったのです。そして、この「人生」を体験している存在は、自分であることに決まっているのですが、それが誰なのか、何者なのかを言葉にすることはできません。

「ただ、自分」(・∀・)

やねん。としか言いようがない。

それはよく知っている「私」というヤツと似ているようで、まったくちがう存在です。

「ただ、自分」(・∀・)

には、名前も年齢も性別もなく、おまけにこの肉体でもありません。もちろん自分なわけで、自分以外の何者でもないのですが、「私」ではありません。自分は「私」じゃなかったのです!

子供の時、「生まれ変わったら何になりたい?」という話をしませんでしたか? そのとき、あなたはスーパースターやお姫様になった自分を想像したかもしれません。頭に思い描いたスーパースターやお姫様は、もちろん、今の「私」ではない別人格です。顔も身体もちがうでしょう。
でも、本当にスーパースターやお姫様になっても、「自分」という感覚は、今と同じです。

「これが私です」

と、言える存在がいますよね。「自分」という感覚です。どんなに別人になっても、この「自分」は不変です。不変と言うことは、時間もないのです。ああ、これ以上は、やはり言葉にすることができません。
(´∀`)


でも、不変で常にある「自分」という感覚、これこそが「本来の自分」なんですけど、それが何者か、どんな存在か、

「しらない」(・∀・)

んですけどね。知ることができません。残念ですけど。

私たちはみーんな、自分が何者か「しらない」のです。これが『真実』です。

「しらない」ことを知っているのが、まあ「覚者」って言われてるヤツなんです。それだけなんです。
(´∀`)

そして、

「しらない」とわかっている

ここが『真実』を体現する起点になります。本当の意味での「無知の知」です。

「しらない」に憩うことをしてください。「しらない」に憩えば憩うほど、あなたは素晴らしい体験をするでしょう。なにも「しらない」のに、あなたは「しっている」と確信できるのです。
それは、まったく未知の世界です。でも、あなたは「しっている」のです。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」

と、確信するのです(・∀・)ノ


分離した「私」はとても弱いです。「しらない」ことに不安を感じます。「しらない」ことを知ってさえいれば、何でもうまく行くと思っています。そして、どこかに正解があるはずと探し続け、何かそれっぽものを、これが正解だと決めつけます。

ある人は正解をお金に見つけ、また、ある人は宗教に見つけます。スピリチュアルに見つける人もいます。しかし、本当は正解なんてどこにもありません。あらゆる事象の正解は、それが終わってみないとわかりません。
サッカーのPK。四隅のどこに蹴るか、または裏をかいてド真ん中に転がすか、蹴る前にその正解は誰にもわからないんです。蹴ってゴールしたとき、正解だったとわかるだけ。

この世界に事前にわかる

正解はありません

それが正解なんです。私たちは本当に何も「しらない」のです。
(´∀`)


そして、この「人生」とい物語の結末も、

「しらない」(・∀・)

のです。それでいいんです。満足するような結末にする正解なんてもん、どこ探してもありません。探すことに労力を費やすなら、まず、

「しらない」(・∀・)

に、くつろいでください。憩うことをしてください。
労力すらいらんよ( ̄ー ̄)ノ

どうやっても説明できないので、体験してくださいとしかいいようがない。『智慧』というのは「しらない」からやってくるのです。


私ウリエル、ときどき、「人生に興味がなくなった」と言います。これは、この「人生」の物語の結末に興味がなくなったということです。
(・∀・)
いい結末にする正解が、どこを探してもないとわかったので。そんなもん、

「しらない」(・∀・)

で、いいんだとわかったので。これはすーんごい安らぎですよ。

「しらない」(・∀・)

でいいと「しっている」んです。本当の「しっている」は、「しらない」から目を覚まします。

「しらない」(・∀・)

 ↑ コイツとひとつになりましょう。
 (´∀`)ノ


あまのはしだて(・∀・)つ
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股のぞきすると、こんなの
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あるいてみた(・∀・)
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@京都府宮津市