「本来の自分」(・∀・)

に、気づくため、「もとに戻る」ため。そのために私ウリエルが唱えていることは、

1.「見てるだけー」でいること

2.感情を感じ切ること

3.「ハート」に感謝すること

だけです(・∀・)つ

それほど難しいことではありません。べつにどこかに行く必要もないし、何かを学ぶこともありません。これらをしながら、基本的に、

「待つ」

だけです(´∀`)

ただ、その「待つ」に少しコツがいりますかね。ちょっと普段でない自分を探してみる感じ。
そして、普段あまり思ったり考えたりしないようなことがチラッと現れたとき、それを見逃さないように注意しておくことかな。
(´∀`)


さて、ここからは、少し取りとめのない話になります。まとまらないんです。お許しください。
(・∀・)つ

まず、

「自分らしさ」

と、思っているものって、記憶から作られた、ただの思考パターンが大半なんですよね。私という人間はこういうときこうする、こうしてきた。私はこれが好きで、これが嫌いだとかって、パターン化された思考にすぎないんです。
言いかえると、ただの習慣です。この習慣を「手放す」とどうなるか? それを見ていくんですね。いわゆる「手放し」です。手放して「待つ」んです。待つ以外に仕方ないです。

ときどき、

「もっと自分らしく生きましょう」

なんて言葉に出会いますが、そんなこと、頭で考えてできないんです。昨日までは大嫌いだったものが、今日大好きになることだってありますから。その逆もありますよね。それが記憶にしか頼ることのできない思考にはわかりません。まあ、よーするに、

「自分らしく」

なんていようとしていないときが、いちばん「自分らしい」ってことです。

『ありのまま』

で、いようとしてなってしていないときが、いちばん『ありのまま』です。幼い子供や動物たちって、自分らしい『ありのまま』でいようとなんてしていないから、『ありのまま』に生きてるわけですよね。
(´∀`)

そういう、頭でイメージしていた、ただの習慣にすぎない「自分らしさ」から脱げ出せたとき、「新しい自分」になるわけです。そして、どんどん、どんどん新しい自分が現れては消えて行く。それが『真実』を体現して生きるということです。

「なんで悟るの?」

と、問われると、この「新しい自分」を、瞬間、瞬間に顕われる「新しい自分」を、思う存分に満喫するため。ということになります。結果的に本当の「自分らしい」生き方ができるようになる。そして、それが「自由」ってことです。
「自由」も同じですよ。「自由に生きよう」なんて、頭で考えていないときが、いちばん「自由」なんです。
(´∀`)

「新しい自分」と言っても、それは「自分」ですからね。まったく知らない人物になるわけではありません。「自分」なので、なろうとしなくてもいいんですよ。というか、なれません。本来あったものが表現されるだけです。だから新しいのに、ものすごくよく知っている「自分」です。よく知っているのに「未知」の「自分」です。

そして、この「自分」は無限です。だから『真実』の体現に終わりはありません。だから、悟ったらそこで終わりなんてことはなく、むしろ、そこからがスタートなんだとか言われます。

「自分」には

果てしない深み( ゚∀゚)

が、あったんです。


もちろん習慣を手放せない、これは大事な「自分」だと執着するのも、悪いことではありません。それが『いま』の「自分」ですから。それがわかっていればいいんです。「ああ、この執着は手放せない」と。
でも執着することにも、そのうち飽きますから。執着が強ければ強いほど、飽きるのも早いです。そんなもんです。でも、飽きているのに無理して執着していたりするから、おもしろいもんです。そんときゃ、「飽きているのに無理して執着している自分」をわかっていればいいんです。

わかっていると、そのうち、何事もなくポイッと手放してしまうときが来ます。必ず来ます。あんなに大事にしていたのに。それも、そのときを「待つ」だけです。そうやって、人は成熟してきます。じっと動かない地味なサナギが、美しい蝶になるように。
(´∀`)


そもそも、「悟り」なんてわからなくていいんですよ。果てしない、無限の「自分」を自由に生きることができれば。
ときどきサナギが蝶になるとき、神秘体験を体験したり、強烈な至福を感じたりする人もいます。明確に「見性」と言われる、「目覚めた!」という実感をする人もいます。
ま、そんな人もいるってだけで、それが本質ではないんですよ。というか、むしろイレギュラーなケースだと思います。そんなもんなくていいし、実際にイレギュラー体験した私ウリエルは、そんなもん逆に無い方がいいと思います。余計にわけわかんなくなる(笑)

『いま』の「新しい自分」

これでいることができれば、それでいいんです。記憶にあるパターンじゃない「自分」で。

この「新しい自分」は、「私」ではありません。知らないヤツです。「未知なる自分」です。知らないのになぜかよく知っている、よく馴染んだ「自分」です。

そして、この「自分」は自律していて、思考でコントロールしなくてもいいことも、だんだんわかってきます。自動運転なんです。すごくないですか?
この世界が「すべて自分」だというのも、当然のことようにわかってきます。べつにわかろうとしなくても、勝手にそうなりますので。
必要なものはすべて与えられて『いま』ここにある。これも勝手にわかります。わかろうとしなくていいんですよ。
「新しい自分」を生きても、辛いことや苦しいこともありますよ。でも、それも楽しめるようになります。「諸行無常」と「一切皆苦」をね。
(´∀`)


「新しい自分」は、今までの自分が大事にしていたものや、なりたかったもの、または、こういうのが幸福だと思っていたものに、まったく価値を置いていないかもしれません。でも、それを恐れないでください。

こっちのほうがシアワセ

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


って感じだから、そういう古いものに価値を置いていないんです。今までよりもっと幸福になりますね。だから、恐れる必要はありません。少しの勇気はいりますけどね。幸福にも果てしない深みがあります。

この『いま』に顕われる「新しい自分」は、「私」が知らないヤツです。連続した記憶を持っていますが、その記憶にある「私」とは違うヤツです。真っ白な「自分」です。その「自分」になって、この世界を羽ばたくのです。どこに向かうのかは「私」にはわかりません。その軌跡を見て驚くだけです。


それからね、「自分を変えたい」なんて思わなくていいんですよ。「変えたい」なんて思っているうちは変わりませんよ。「べつに変えなくていい」と思えたら、自然に変わって行きます。そんなもんです。不自然なことをやめて、自然にしてればいいんです。
「自分らしく生きよう」も「自分を変えよう」も、不自然なことやっているわけです。まず、

「なーんも変えなくていい」

ことを知ってください。それがわからないと、何も変わりません。サナギは「自分を変えたい」と思って努力しているわけではないですからね。ただ自然に蝶になるだけです。

「自分らしくしなくていい」

し、

「なーんも変えなくていい」

とき、人は本当に自分らしく生きることができるんですよ。真に自然なんです。それが「悟り」って言ってしまうとそうなのですが、そんなこたぁ、どーでもいいんです。非二元も神様も霊界も精霊も天使も死後の世界も前世も来世もプレアデスもシリウスもアセンションもパワーストーンもパワースポットも、そんなかこつけた「物語」みたいなもん、もっとどーでもいい(笑) 

結局、『いま』ここにある幸福に気づくだけ、「足るを知る」

って、ことになりますね。

なんか、つまんないでしょ?

でもね、その「つまんない」が大事なんですよ。

その「つまんない」から、すべてがスタートなんですよ。その「つまんない」にぺったりくっついているんです。そこにいるんです。いたんです。

「新しい自分」が!

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \



いやあ、ホントにまとまってねーや。
(´∀`)ゞ

いやぁ、もう師走だねー
とりあえず去年の画像だけんど。また撮りに行こうっと。
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御堂筋@大阪府大阪市