父が体調を崩してしまいました(´・ω・`)
なにぶん高齢なので、いろいろ心配になります。すると、
「また元気になってほしい」
という「願い」が、私ウリエルの中に起こりました。
(・ω・)!
生きていると、いろんな願いが現れては消えて行きます。願いが現れたとき、人はそれが叶うようにいろいろ努力したり、また、神様に祈ったりします。でも、願いが現れたことそのものを喜ぶ人はほとんどいません。
願いがあったほうが、人生の物語はおもしろくなります。なーんも願いがないというのも悪くはないのですが、それだとイマイチ盛り上がりに欠けますよね。願いがあるほうが、味わい深い。
(´∀`)
「本来の自分」(・∀・)
は、この人生を楽しみたいのです。だから願いも体験したいのです。それが叶うかどうかハラハラしたり、またモヤモヤしたり、ひとつの願いでいろんな体験をできるのです。
もちろん、いつも願いが叶うとは限りません。そんなものわかりません。でも、すべてが完璧なので、それもいいんです。
「欲望は手放せ」とスピリチュアルでは説きます。それは間違ってはいませんが、少し幼稚な次元です。欲望だって勝手に湧いて来るわけで、それを無理やり抑圧したってしょうがありません。
ただ、願いや欲望が現れたとき、それを実現しようとしたり、または抑圧しようとする前に、
願いや欲望そのものを、
しっかり味わう(・∀・)
喜びをもってそれを迎えて、願いや欲望そのものを観察したり楽しんだりする。それをすればよいだけです。それが『ありのまま』を愛するということです。そして、この世界を信頼するということにもなります。
「こうなったらいいな」
「こうならないとまずい」
「絶対にこうなりたい!」
いろんな現れてくるものを、まずは愛すればよいのです。そして、「ああ、自分はこんなことを望んでいたんだ!」と驚けばよいのです。それから、すごいな、不思議だな、おもしろいなと、それらをじゅうぶんに味わえばよいのです。そうして、それを体験できることに感謝すればよいのです。
神社に行って神様にお願いするのは、それらをちゃんとやってからにしてください。
(´∀`)
まあ、ちゃーんとしたら、「願掛け」なんてたぶんしなくなるとは思いますが(笑)
この個人としての「私」の心の中には、いろんなものが現れます。怒り、嫉妬、希望、恐怖、願い……
ちょこーっと、一歩うしろに下がって、まずその現れたものを観察して味わうことを、ちゃんとすればよいのです。じゅうぶんに体験したら、それらは消えていくことでしょう。そして、また新たなものが現れます。それの繰り返し。その繰り返しが楽しくておもしろいのだということです。それが体験したくて、この人生を生きていたというわけです。
このことに気づいているのといないのとでは、世界の見え方が変わってきますね。気づいていると、また新たないろんなことに気づけます。不思議なことも起こります。
こうして人は深くなり、「ひとつ」になって行きます。「絶対の幸福」を知って行くのです。
自分自身が『愛』そのものだということも、やがてわかります。
難しいことではありません。正直な『ありのまま』の「私」を、この今の「私」を、一歩引いて見て、それをただ
『愛する』
だけです(´∀`)ノ
それだけでいいんです(´∀`)ノ
三重県に寄って来た。
四日市はトンテキが名物(´∀`)
@三重県
なにぶん高齢なので、いろいろ心配になります。すると、
「また元気になってほしい」
という「願い」が、私ウリエルの中に起こりました。
(・ω・)!
生きていると、いろんな願いが現れては消えて行きます。願いが現れたとき、人はそれが叶うようにいろいろ努力したり、また、神様に祈ったりします。でも、願いが現れたことそのものを喜ぶ人はほとんどいません。
願いがあったほうが、人生の物語はおもしろくなります。なーんも願いがないというのも悪くはないのですが、それだとイマイチ盛り上がりに欠けますよね。願いがあるほうが、味わい深い。
(´∀`)
「本来の自分」(・∀・)
は、この人生を楽しみたいのです。だから願いも体験したいのです。それが叶うかどうかハラハラしたり、またモヤモヤしたり、ひとつの願いでいろんな体験をできるのです。
もちろん、いつも願いが叶うとは限りません。そんなものわかりません。でも、すべてが完璧なので、それもいいんです。
「欲望は手放せ」とスピリチュアルでは説きます。それは間違ってはいませんが、少し幼稚な次元です。欲望だって勝手に湧いて来るわけで、それを無理やり抑圧したってしょうがありません。
ただ、願いや欲望が現れたとき、それを実現しようとしたり、または抑圧しようとする前に、
願いや欲望そのものを、
しっかり味わう(・∀・)
喜びをもってそれを迎えて、願いや欲望そのものを観察したり楽しんだりする。それをすればよいだけです。それが『ありのまま』を愛するということです。そして、この世界を信頼するということにもなります。
「こうなったらいいな」
「こうならないとまずい」
「絶対にこうなりたい!」
いろんな現れてくるものを、まずは愛すればよいのです。そして、「ああ、自分はこんなことを望んでいたんだ!」と驚けばよいのです。それから、すごいな、不思議だな、おもしろいなと、それらをじゅうぶんに味わえばよいのです。そうして、それを体験できることに感謝すればよいのです。
神社に行って神様にお願いするのは、それらをちゃんとやってからにしてください。
(´∀`)
まあ、ちゃーんとしたら、「願掛け」なんてたぶんしなくなるとは思いますが(笑)
この個人としての「私」の心の中には、いろんなものが現れます。怒り、嫉妬、希望、恐怖、願い……
ちょこーっと、一歩うしろに下がって、まずその現れたものを観察して味わうことを、ちゃんとすればよいのです。じゅうぶんに体験したら、それらは消えていくことでしょう。そして、また新たなものが現れます。それの繰り返し。その繰り返しが楽しくておもしろいのだということです。それが体験したくて、この人生を生きていたというわけです。
このことに気づいているのといないのとでは、世界の見え方が変わってきますね。気づいていると、また新たないろんなことに気づけます。不思議なことも起こります。
こうして人は深くなり、「ひとつ」になって行きます。「絶対の幸福」を知って行くのです。
自分自身が『愛』そのものだということも、やがてわかります。
難しいことではありません。正直な『ありのまま』の「私」を、この今の「私」を、一歩引いて見て、それをただ
『愛する』
だけです(´∀`)ノ
それだけでいいんです(´∀`)ノ
三重県に寄って来た。
四日市はトンテキが名物(´∀`)
@三重県
お父様の件で、↑
落ち込んでみよう、ってしたのかな
(・・?)
そうだったらば大変失礼しました。
m(._.)m
笑うウリエル
がしました