わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

2021年04月

「放っとけ」\(^o^)/

さて、今日は何を書きましょう?(●´ω`●)


私たちは常に何か考えてます。ウリエルもたった今、「今日は何を書きましょう?」と、考えていました。そして、記憶という物置の中をゴソゴソと探ります。

記憶の物置には、それはもうたくさんのものが散乱し積み上がっておりまして、「今日は何を書きましょう?」を探しに行ったのに、「そういや今日はあれをしないと」とか「昨日のあれはまずかったな」とか、いろんな関係ないものが見つかって、それについてまた違う記憶を探しに行き、そしてさらにまたまた、気になる関係ないものが見つかって...... 
結局、何を考えているのかよくわからない状態になっているのですが、それにすら気づかず、ただグルグルといろんな記憶を次から次に出しているだけなのに、本人はちゃんと考えているつもりになっている。
(´・ω・`)

まあ、みなさん、だいたいこんな感じでしょう?
(・∀・)

でも、記憶と言うのは現実に今起こっていることではないですよね。「そういや今日はあれをしないと」とか「昨日のあれはまずかったな」とかって、現実と思ってしまっていますが、今起こっていることじゃない。

たとえ、ついさっき確かに起こったことでも、もう今、起こっていることじゃないです。
たとえ、今日必ずやるべきことであっても、今、起こっていることじゃない。
たとえ、いつも決まって起こることであっても、今、起こっていることじゃない。
たとえ、あなたがいつもそうであってもそれは、今、起こっていることじゃない。

今、起こっていないということは、

現実でない

わけです。ですよね。とてもシンプル。
(´∀`)

でも、ほとんどの人が、

記憶を現実と混同している

わけです。記憶が出しゃばりすぎて。ということは、

現実を無視している

わけです(・ω・ノ)ノ


記憶ってのは大事なものですよ。それを使っていろんなことを考えて、いろんなことをすることができます。欠かせない道具です。欠かせないから「本来の自分」が創りました。
でも、道具はしょせん道具なんです。この道具を「人生」だと思ってしまっているから厄介なことになっているんです。

んで、この記憶という道具を使いこなせるのは、「本来の自分」だけ。みなさんは使わなくていい。つまり個人の人間というレベルでは、記憶は

放っとけばいい

わけです。ハイ。

放っといて、何の問題もありません。ハイ。
(・∀・)

私はだいたいいつもこうしているとか、
これがあれば安心とか、
たった今、この記事を読みながら、何かを得ようとしていることさえ記憶なんですよ。

ぜーんぶ、まったくの見当違いとして、放っといてみてください。

ぜーんぶ、放ってしまって、まずは

ひとやすみ

してください。ハイ。

「ああ、いつも記憶ばかり気にしているな」と、たった今思ったそれも記憶ですよ。
ハイ、ポッっと。
(´∀`)ノ


放っといたらどうなるかを、ただ見るだけでいいんです。

何も問題ないことがわかりますから。



湯村温泉・荒湯
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ここにタマゴやカニを沈めて茹でます。
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@兵庫県新温泉町
ちなみに、ここの温泉街の地名は「湯」です。
「兵庫県美方郡新温泉町湯」なのです。


「教え」を上書きしないで

スピリチュアルの教えって、

「手放す」(・∀・)

とか、

「受け入れる」(・∀・)

とかが、よく出てきます。「手放す」も「受け入れる」も同じですね。

例えば、「人をコントロールしたい」という思いがあっても、実際にはコントロールなどできない。だからそれが苦しみになる。そこで、

「ああ、このコントロールしたい思いを手放せばよいのだ」
「ああ、コントロールできないことを受け入れればよいのだ」

というふうに、スピリチュアルの教えにのっとって、

「エイッ! 手放した!」
「エイッ! 受け入れた!」

と、やるわけです。あのー、

ダメですよ、こんなことしちゃ(´∀`)


これ、観念の上に新しい観念を「上書き」しただけで、「私」というエゴを、より複雑に構築しただけです。絶対に壊れないように補強しただけ。「本来の自分」から真逆に行ってますね。

これは私ウリエルだってそうだったですが、「私」はどんな思考もウソ、真実じゃないウソのUSO800。それを見破られることを極端に恐れています。どこかに必ず「正しい思考」があるはずだという信念を持っていて、それは役に立つと思っています。だけど、

そんなものはないんですよ(・∀・)

スピリチュアルの教えは、ただの「地図」みたいなもんで、実際の道でも旅でもないんです。


「人をコントロールしたい」という思いが苦しみになっていると気づいた。ならば、これを手放せばいい。エイッ!
こんなふうに安直にやってしまうと、「人をコントロールしたくても、本当はできないから、コントロールするべきではない」という、新しい信念が生まれるだけなんですよ。
(´・ω・`)


そうではなくで、もっと根っこのほうに目を向けてください。

どうしてコントロールできないと苦しいのか?
何が苦しいのか?
コントロールしたい気持ち、これがそもそも本当か?
べつにコントロールできないけど、してもいいんじゃないか?
というか、どうしてコントロールしたくなるのか?

とにかく、いろいろ深ーいところを見てみるんです。さかのぼって、どんどん深く、深ーくね。するとね、

「こうあるべき」
「こうあるべきではない」

が、まったく消えてしまうことを恐れている「私」が必ずいるはずです。

「正しさ」、「善良」、「ふつう」、「平穏」、「自由」

こんなものが、すべてウソでウソのUSO800。なにひとつ真実が無い世界。頼りになるものが、これっぽっちも無い世界。それを恐れている「私」
(´-ω-`)

真実の思考など存在しません。頼りになる指針など存在しません。思考で表現されるもの、すべてUSO800です。
そんなこと言われると、思考は大混乱して恐怖をおぼえます。


あ、恐れていてかまわないんですよ。それが『ありのまま』ですから。

ゆったりした気分になって、その恐怖をじっと感じてみてください。

あとは自然にまかせておけばいいんです。

「本来の自分」が導きますので。

何ひとつ真実がないという『真実』の世界へ。



山陰本線「鎧駅」からの景色はいつも素晴らしい
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@兵庫県香美町

本当に「欲しい」のは?

ごきげんよう(・∀・)

どうも体調がよくなく、なんだかヤル気も起きないので、ひとやすみしておりました。
まあ、でも、ぼちぼーち、また記事を書いていきます。


さて、みなさんもぼちぼーち、「主の通られる道をまっすぐに」されておられるでしょうか?
内側から湧いて来るものを、正直な内側の声に耳を傾けて、それをまっすぐに『ありのまま』に表現されていますか?

それが自分自身でいるということなんですよ。「本来の自分」でいるということ。内側の声を否定して、「こうあるべき」にとらわれているときは、自分自身ではないのですね。誰なんでしょうね、それ。
(´∀`)

ただ、いきなり「本来の自分」に、スルッと戻ることもなかなか行きません。その誰なんだかよくわらからないヤツを、長年、自分自身だと思いこんでいますから、ソイツがいなくなることへの抵抗も感じることもあります。

でも、「本来の自分」に戻る幸福以外に、幸福になる方法はありません。他のどんな幸福も、いっときは幸福感を感じることができますが、必ず消えます。「絶対の幸福」以外の幸福はありません。


んで、内側をまっすぐに表現していると、強い「欲しい」がでてくるときがありますね。強い欲求。
(・∀・)ノ

その「欲しい」を味わって満喫してください。

と、前々回の記事で書きました。抑え込まず、素直に「欲しい」、それを感じてくださいと。

そもそも「欲しい」って、何かに欠乏している欠乏感から生まれてくるわけです。何かに渇いている。では、いったい何に欠乏しているんでしょうね?
(´・ω・`)?

異常に食欲が抑えられなくなる時がある。でも、お腹がものすごくすいているわけではない。
日々の暮らしでお金にはとくに困ってはいないのに、もっともっと欲しくなる。

本当に食べ物やお金に欠乏していて、「欲しい」が出てくることもありますよ。でも、そうでないときもたくさんありますよね。そうでないのに強く「欲しい」が出てくる。つまり、強い欠乏感が心の奥にあるんでしょうね。

なんに欠乏しているんでしょうね?

(・∀・)?

それをちゃんと見ないと、なにも解決しませんね。その欠乏感が埋まらないから、「代替物」で満足しようとしているんですよ。その代替物が食べ物やお金ってだけです。
私たちはいつも、その代替物の方しか見てないので、ずーっと「本当は何に欠乏しているか?」に気づかずに生きてしまっているんですよ。なので、本当に欲しいものが手に入らずにいるまんまなんです。

なんに欠乏しているんでしょうね?

その「欲しい」を、一度、さかのぼってみてください。いったい何が欲しいのか? 本当に欲しているものは何なのか?

食欲、性欲なんてのは、体が自然に求めている場合も、もちろんありますよ。でも、あきらかにそうでないときがあるって、自分でもわかりますよね。
(´∀`)

代替物のほうを見るのではなく、内側を見に行ってください。
本当に欲しいものはなにか? ずーっと、ずーっと、内側の奥深くへ。

さかのぼってください(・∀・)


するとね、あるんですよ! 

w(゚o゚)w 

最初から満たされていて、何も欠乏してないんですよ。

「欲しい」はそれに気づきなさいという、「呼びかけ」だったんです。「本来の自分」が呼ぶ声だったんですよ。「本来の自分」であることに気づきなさいという声だったのです。

それはいったいどういうものか?

ご自身で確かめてください(´∀`)


春らしく♪
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@京都府京丹後市

主の通られる道をまっすぐにせよ

「主の通られる道をまっすぐにせよ」

(・∀・)つ


いきなりですが、聖書の言葉です。

「主」というのは神様のことです。つまり「本来の自分」です。本来の自分は神様であり、阿弥陀仏であり、大日如来なのですから。ということは、

「本来の自分が通る道をまっすぐにせよ」

と、聖書は言っているわけです。では、「本来の自分が通る道をまっすぐにせよ」って、どういうことなのでしょう? それは、

『ありのまま』でいなさい

ということです。


『ありのまま』というのは、外側に対してありのままにしておくことではありません。ケガをして血を流している人や、困っている人を見てもそのままにしておけとか、そんなこと言っているのではありません。
『ありのまま』というのは、内側に対してです。あなたの内側を『ありのまま』に表現しなさいと言っているのです。なので、そのためには、常に自分の内側を、

まっすぐに正直に

見ないといけません。

そして、まっすぐに正直に、それを表現してください。それが、「主の通られる道をまっすぐにせよ」ということなのです。

うれしさや楽しさは、簡単に表現できます。けれど、「よくない」、「好ましくない」とジャッジしてしまうものは、表現せずに誤魔化してしまいがちです。でも、それもまっすぐに正直に表現してよいのです。そうでないとまっすぐでないのです。

怒りが湧いてきたら怒りをそのまま表現すればよいのです。
落胆が起こったときは、「OK、今は落胆すればいいんだね」と、落胆すればよいのです。
迷ったときは迷えばよいし、後悔するときは後悔し、行き詰まったときは行き詰まっていればいい。
嫉妬が湧いてきたら嫉妬して、強欲が湧いてきたら強欲になり、怠惰なときは怠惰でいて、恐怖が襲ってきたら恐怖に震えればよいのです。
いっさい、自分を偽ったり、誤魔化さないように。何も包み隠さない自分でいていいんです。何も包み隠さない自分を体験してください。これが、

「主の通られる道をまっすぐにせよ」

ということなのです。


『ありのまま』に表現されるものの中には、もちろん「本来の自分」からではないものもあります。あとから出来た「こだわり」からのものもあります。それも、隠さず表現されることによって偽りに気づくことができ、浄化され消えることができるのです。そして、それを繰り返すことによって、少しづつ自身のさらなる深いところに入って行けるのです。

「正しい」とか「間違い」とか、いっさい思わずに、ただ『ありのまま』に表現し、それを体験するだけです。
「私」から見たら、どう考えてもまっすぐには見えなくても、それで「主の通られる道」は、完全にまっすぐなんです。「私」が間違っていたと思っても、それでまっすぐなんです。間違うことで、新たな扉が開くのです。

正直な心の声をキャッチして、それを表現してください。それは、直感やインスピレーションのときもあります。何かが違うという違和感のときもあります。何もジャッジしないで、ただ表現してください。
結果がどうなろうと関係ありません。ただ『ありのまま』にいるだけです。純粋な幼な子になればよいのです。


すると、どうなるか? 主の通られる道をまっすぐにしたらどうなるか?

それは聖書に書いてあります。

『すべての谷はうずめられ、すべての山と丘は低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる』

すごいですね。
神の救い、ぜひ見ましょう(´∀`)


春らしい風景を(・∀・)ノ
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@京都府京丹後市

「欲しい」(・∀・)

あなたはいま、

何がいちばん欲しいですか?(・∀・)

お金?
愛する人?
悟り?

なんですかね?(´∀`)


では、なぜ、それが欲しいのですか?(・∀・)

たぶん、きっと、今よりも「幸福」になると思っているからですよね。それを手に入れると、何かしらの「見かえり」があって、その「見かえり」を求めているわけです。なんの「見かえり」もないのなら、それを欲しいと思うでしょうか?
実は、この「見かえり」を求めること。これが、「本来の自分」に戻ることを妨げているんですけどね。
(´∀`)

なぜなら、「本来の自分」は、すでに幸福で、これ以上は幸福になれない「絶対の幸福」にいるので、欲しいものもありませんし、「見かえり」もいりませんから。


じゃあ、なんで「欲しい」という気持ちがわいてくるのかなぁ?
(´・ω・`)

それは「欲しい」を体験して、その体験がとてもおもしろいんでしょうね。
本来のみなさん自身は、本当に満ち足りすぎていて、もう本当に何もいらないんです。なんせ「絶対の幸福」だもん。なので「欲しい」なんて思うこともありませんので、体験もできません。

だからゲームをしてみた(・∀・)

すると、「欲しい」がおもしろくて楽しいんですよ。とっても楽しい。夢中になっちゃう。
(´∀`)


スピリチュアルでは、「欲望は手放しなさい」と口を酸っぱくするほど言ってますけど、湧いて来るものは仕方ないですよね。欲しいもんは欲しいんだから。
それを手放すって、結局、その湧いて来るエネルギーを抑圧するだけで、『ありのまま』とは言えないと思うんですけど。

「欲しい」(・∀・)

ちゃんと正直に感じてください。「欲しい」そのものを楽しんでください。口に出して行ってください。それが

「欲しい」(・∀・)

と。

「欲しい」そのものをちゃんと楽しんだら、実際にそれが手に入るかはどうでもいいんですよ。というかね、「欲しい」をたっぷり楽しんだら、それに満足して、その欲しいもの、もういらなくなります(笑)
何か手に入れたいものがあるから「欲しい」が湧いてくるんじゃないんです。「欲しい」を味わいたいから、手に入れたいものを作ってゲームをしているんです。だから、実は「見かえり」もいらない。

「欲しい」(・∀・)

を、隠さず、抑え込まず、ちゃんと味わって満喫してください。とってもステキで純粋なものですよ。無垢な子供のようなエネルギーです。この「欲しい」を楽しんでください。身体でそれを感じてください。
実際に、その欲しいものが手に入ったら、おそらく大半の人がこう思います。

「思ってたのとなんかちがう」(´・ω・`)

ってね(笑) だって、そもそもゲームだもん。「見かえり」なんてないよ(笑)
だから、手に入るまでの「欲しい」を存分に楽しんでください。


そうしているうちに、ふと、何かに気づきますよ。

それは、みなさんご自身で確かめてくださいね。
(・∀・)(・∀・)(・∀・)



ハトに注意!(((( ;゚д゚)))
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@兵庫県西脇市
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笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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