わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

2021年06月

「何もしないこと」

「純粋意識」(・∀・)!

「静寂」、「空」、「気づき」…… いろんな言い方で表現されますが、これらはすべて同じことを指しています。ウリエルは

「見ているヤツ」(・∀・)

と、よく言います。そして、これが何を隠そう、

「本来の自分」(・∀・)つ

です。

何もムズカシイことではないんですよ。どーーーってことないことです。客観的に自分自身を見ることってできますよね。まるで他人を見るように。

「いま、私は腹が立っているな」
とか、
「私は何やってもダメだ」
とか(・∀・)つ

その客観的に「私」を見ているのが、「本来の自分」です。それ、「私」じゃありません。それも「私」だと、

カンチガイしているだけです
(´∀`)ノ

「私」を他人のように見ているわけですから、その見ているヤツは「私」のはずがないんです。「私」は「私」を見れないんです。ハイ。

そして、この見ている存在は、何もしないでただ見ているだけです。「光」だとか「源」だとか「愛」だとか言うから、ややこしくなってしまうので、ここではそれらは無視してください。
まずは、その客観的に自分自身を見るとき、その見ている自分は「私」じゃない。このことを理解してください。もう、理解しなくてもいいや。

これ「私」じゃない!

そう、宣言してください。
(´∀`)

さて、その「私」じゃない何者か。これが「純粋意識」であり「静寂」であり「空」なわけですが、コイツはとにかく何もしないし、何も考えないし、ただ見ているだけです。バラの花を見ても、
「これはバラだ」
とか、思いません。「花」とも思いません。ただただ見ているだけです。見ていないときがない。みなさんの意識がある限り、ずーっと見ています。でも、なんにもしません。なんにも考えないし思いません。見てるだけー。
(・∀・)

そう、「本来の自分」は、「見てるだけー」なんです。「見ているヤツ」
(・∀・)
そして、この「見てるだけー」のヤツ、客観的に自分自身を見るときの「見ているヤツ」、コイツの側にいることを、「瞑想」と言います。

だから「瞑想」は、禅の道場で座らなくても、アシュラムに行かなくてもどこでもできます。コンビニに歩いて行く途中でもできるし、台所で何か作っているときでもできるし、トイレの中でもできます。
逆に、「見ているヤツ」になってないのなら、何時間座禅をしようが、瞑想っぽいことをしてどれだけ集中しようが、それは

無駄です(´∀`)ノ


んで、ここまでは前置きです(なげーよ)

「見ているヤツ」、すなわち「本来の自分」は、見ているだけで何もしません。神で阿弥陀仏で大日如来のくせに、なーんもしません。腹立つほど何もしません。

「見てるだけー」(・∀・)

あなたがたいへんな困難に直面しようが、たいへん苦悩しようが、命の危険にさらされようが、徹底的に、

「見てるだけー」(・∀・)

でも、それでいいんです。それは「見てるだけー」の、「見ているヤツ」の側に立って、ただ「私」を見ていれば自然にわかってきます。
「見ているヤツ」になっていると、エネルギーは自然に本来の流れに戻って行きます。無駄な浪費がなくなり、最適な流れに自然になって行くのです。

ただ、すぐに何か成果や結果がでるものではありません。仮に成果や結果がそのとき出てても思考ではわかりません。なので、「私」はすぐに「バカバカしいこと」、「無駄なこと」とジャッジして、「見てるだけー」を放棄し、思考に没頭してしまうんです。
(´・ω・`)


「何もしないこと」

「無思考でいること」

これは、スピリチュアルでよく言われることです。これらは、ただずっとじっとしていたり、ただ何も考えないことではありません。これらの本当の示していることは、

「見てるだけー」(・∀・)

の、「見ているヤツ」でいることです。だって、「見てるだけー」で何もしてないし、何も考えてないんですから。だから、あなたがどんなに動き回って、頭をフル回転させて考えまくっていても、それを客観的に

「見てるだけー」(・∀・)

でいれば、それがすなわち「何もしないこと」であり、「無思考でいること」なんですよ。
(´∀`)
そして、それが「瞑想」なんです。シンプルで簡単でしょ?


「見てるだけー」の側に立って「私」を見ているだけで、少しずつ何かが変革して行きます。すぐにはわからないので、ほとんどの人が「バカげたこと」とジャッジしてやめてしまい、他にもっといいものがあるんじゃないかと、あっち行きこっち行きしてるんですよ。それこそが「バカげたこと」としか言えませんよ。
(´∀`)


腹が立つほど、

「見てるだけー」(・∀・)

の、コイツでいればいいんです。これこそが「本来の自分」で、これが神様で阿弥陀仏で大日如来だってわかるまで。

いろんなことに出会い、いろんなことをして、笑ったり泣いたりする「私」を、

「見てるだけー」(・∀・)

で、いいんです。それだけで、ゆっくりとですが確実に導かれて行くんですよ。

ホントです。そして、それこそが、

「何もしないこと」

なのです(´∀`)


多度大社(・∀・)
『ちょうちん祭り』の準備が整っていた。
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@三重県桑名市




外側の対象から内側へ

なんとなく「第三章」に行ってみよう( ゚∀゚)ノ

みなさんは「本来の自分」に戻る、自分がこの世界の中の小さなひとりの人間ではないということに気づく、「私」などというものに実態がないことを知る、それと同時に、

「本来の自分」を生きないといけません。
(`・ω・´)キリッ


というか、ずっと誰もが「本来の自分」で、「本来の自分」でいなかったことなどないのですが、そのことをうっかり忘れていただけなのです。うっかり、すっかり忘れて、本来すべきことも、ちゃんと出来ないままでいるのです。

では、「本来の自分」は何をしようと思っているのでしょう? 

それをしないと、生きている意味がないとも言えます。
(´・ω・`)


では「本来の自分」がしたいこと。まずひとつは、

いろんな感情を楽しむこと(・∀・)

です。いろんな感情を味わって、それを体験して楽しむために、わざわざ「外側」を創ったのです。
(´∀`)

誰かを好きになった。そのときの湧き上がるエネルギー。それを味わうためには、「誰か」という対象がいないことには体験できません。だから、「誰か」というその人と、「私」というものを創ったのです。ふたつに分離したのです。


「私」は好きになった「対象」を見ます。でも、「本来の自分」は対象は見ていません。
(´・ω・`)?

「本来の自分」は、そのときに湧き上るエネルギーを見ています。胸の内から湧き起こる「好き」というエネルギーを見ています。そして、それをとても楽しく味わっています。

「『好き』というのは、こういうものか!」

それを味わい体験して、楽しんでいるのです。
胸の奥のうずき、からだ全体が踊り出すようなワクワク、止めようのないそのエネルギーを本当に楽しんでいるのです。
(´∀`)

「悲しみ」や「怒り」、「不安」や「恐怖」といったものも、その湧き上がるエネルギーを味わって驚いたり、楽しんだりしているのですよ。

「ああ、『悲しみ』って、こういうものか……」
「おお、これが『怒り』か。すごいな!」
「これが『不安』か! これが『恐怖』か!」

ってね(´∀`)


だから、外側の「対象」だけに気を取られていては、いつまでたっても、

なんのために生きているのか?

が、わかりません。わからないので、テキトーなヘリクツ作って誤魔化します。

「歓び」や「幸福」って何なのか?

も、わかんないです。「対象」には「歓び」も「幸福」もありません。「対象」になんて実態はないからです。


「本来の自分」がしようと思っていたことに立ち返ってください。外側の対象から、内側に目を向け、内側の声に耳を澄ましてください。この「内側」に湧き起こるものを体験したいがために、わざわざ内に対する「外側」を創ったのですから。それがために「分離」したのですから。
誰かや何かを好きになったら、「対象」でなく、そのとき内に湧き起こるエネルギーを

愛してください(・∀・)

人やモノでなく、この感情をこの上なく愛でて、味わってください。


それがあなたがいちばんしたいこと。「本来の自分」がしたいこと。それをするために生まれてきたんです。それを体験するために『いま』ここにいるんです。

悲しみも怒りも、不安や恐怖も、驚きや退屈も、
現れるありとあらゆるエネルギーを味わい体験する。外側の「対象」でなく内側の「エネルギー」を楽しむ。これが、

『真実』を体現する生き方

なんですよ(´∀`)

だから、ウリエルは「感情を感じて、感じ切ってください」と、常々、言っております。



「それの何がおもろいねん?」
(´・ω・`)?
そんなふうに思うかもしれませんが、まあ、意味なんて考えないで、そうやって生きてごらんなさい。毎日、そうやって過ごしてごらんなさい。

やがて、わかってきますよ。

「本来の自分」が神様で阿弥陀仏で大日如来なんだって、どうして昔の偉い人たちが言ったのか。

すごいんです。

とにかく、すごいんです。
(`・ω・´)キリッ


水晶浜
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そして遠くに見えるは美浜原発
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@福井県美浜町

次元上昇って簡単

この世界は「二元」です(・∀・)

あらゆるものが背反するふたつから構成されています。そして人は、このふたつの間を振り子のように行ったり来たりします。

それが人生です(・∀・)

喜びと悲しみ、成功と失敗、幸と不幸、愛と憎、明と暗、苦と楽......
ふたつの間を行ったり来たり。それは生きている限り終わることはありません。

このふたつの間を振り子のように行ったり来たりせず、その真ん中にとどまることが「中道」ではありません。時計の振り子を真ん中で止めてしまうと時計は止まります。それは「死」です。

行ったり来たりそのものを楽しむこと

それが「中道」です(´∀`)


「本来の自分」は行ったり来たりをしたいのです。悲しみがないと喜びがわかりません。失敗がないと成功がわかりません。苦がないと楽がわかりません。ふたつの両端の間をいったりきたりするから、それらがどんなものか、初めて体験し知ることができるのです。

右も左も分かつことができないもの

どちらも等しく大事

それを知ることが「中道」です。
右と左の真ん中ではありません。

「右でも左でもないから、とりあえず真ん中って言っとこうか」

と、ブッダが思ったかどうかは知りませんが、ま、とにかく、右も左も分かつことができないもの。どちらも等しく同じ価値。と、知ることが「中道」です。

「ふたつじゃないから、とりあえずひとつって言っとこうか」

という「不二一元」と同じノリです。シャンカラがそう思ったのかどうかは知りませんが。


左右の両端どちらか片方だけ取ることはできません。だのに、人間はそれをしようとばかりします。時計の振り子が右に振れているときに止めて、左に行かないようにする。右から左に行こうとしている振り子を、気合で再び右に戻す。
(ノ`Д´)ノ
これはエネルギーの無駄づかいです。いえいえ、無駄づかいですみません。時計はムチャクチャになり、おかしな時間を示します。

ずっと右にとどめることはできません。右に行ったら左に行きます。左に行ったら、また右に戻ります。
お金があるときがあれば、ないときもあります。ないときがあれば、またあるときもあります。
楽しいときもあれば苦しいときもあり、苦しいときもあれば、また楽しいときもある。
この行ったり来たりこそが、かけがえのない体験で、おもしろく楽しいものだという視点に立ってみてください。
行ったり来たりが「生きる」 そして、それを楽しんでいる者こそが、「本来の自分」なのです。
(´∀`)

右だけを取って左は排除なんてできないんです。私たちは振り子時計のように生きていますから。
排除できないのなら、左は左で「これもいい」と受け入れればよいだけです。左は左で存分に味わえばよい。「次元上昇」って、これだけのことなんですよ。とても簡単なんです。

右だけをつかみ取ろうとしていたけれど、左もつかんでみた。これだけで左右に揺れ動く苦しみから解放されます。行ったり来たりがおもしろく楽しいものになる。あなたはひとつの次元を超越したのです。

例えば、お金があるときはもちろん楽しいけど、ないときはないときで、いろいろ工夫するおもしろさや、お金が手に入ったときのうれしさも体験できる。これがないとお金のありがたさもわかんない。貧乏だけど明るく笑っている人たちが、どんな気持ちなのかもわかる。なんて素晴らしい体験なんだろう!

こうなったとき、あなたは「次元上昇」したのです(・ω・)

裕福と貧困という振り子を超越し、振り子そのものを楽しむようになったのですよ。
もう、あなたはお金を失う恐怖から解放されました。収入や支出をコントロールするために、頭を悩ますこともしなくてもよくなりました。また、その頭を悩ますこと自体もおもしろくなりました。「中道」を知り、「次元上昇」したのです。


つまりは『いま』をちゃんと体験しろってことです。

つまりはすべてを許し受け入れなさいってことです。


文章で説明しようとすると、なかなかややこしくなるんですけど、一歩下がって大きな視点で見ればいいだけです。右や左ばかりにフォーカスするのではなく、左右に揺れる、その振り子を見ればよいです。

そして、振り子を見ているだけで、「本来の自分」に戻って行くんですよ。

だって、その見ている張本人が、

「本来の自分」(・∀・)

なんですから(´∀`)


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上神梅駅@群馬県みどり市

おおらかさ(・∀・)

「本来の自分」が、この世界を創り出しています(・∀・)

その創造した世界は、「二元」の世界です。分離した「私」という個人を創ってしまったので、「私」と「私以外」という、ふたつの概念が出来上がってしまいました。肉体の皮膚の内側が「私」で、外側が「私以外」というふうにです。

「私」がないことには「私以外」もないし、「私以外」がないと「私」もありません。

こんなふうに相反するものふたつを対比することでしか、ものごとを認識したり理解したりすることができません。これが「二元」の世界です。
(´・ω・`)

「晴れ」と「雨」
「高い」と「低い」
「寒い」と「暑い」
「正しい」と「間違い」
「善」と「悪」……

ありとあらゆるものを理解するのには、相反するふたつのものを対比しないと、なにもわかりません。
もし、「雨」の日がなかったら、ずっと「晴れ」です。そうすると、もうそれを「晴れ」と思うことすらできません。「雨」を知らないのですから。単なる「そら」です。
「プリン」と名付けられた食べ物は、「プリン以外」の食べ物がないと。それを「プリン」と認識できないのです。もし、この世に食べ物が「プリン」しかなければ、それを「プリン」と呼ばなくていいし、「甘い」とか「辛い」という概念もいりません。単に「食べ物」と呼べばいいのです。
わかりますか?(・∀・)


そして「二元」の世界は、どんどん細かくすることができます。

「プリン」にも「おいしい」と「まずい」があって、さらに「おいしい」にも「あの店よりおいしい」とか「あの店の方がおいしい」とか、どんどん細かく細かく分けて行くことができます。フォーカスするところ、注目するところを、小さく小さく、細かく細かくすることができますね。

そして、分離した「私」は、この小さく細かくする作業が、

大好きです(・∀・)

大好きなんです。このことを知っておいてください。

どんなことでも、小さく細かく、重箱のスミのスミまで知っている人を、「専門家」とか「知識人」と呼んだりしてあがめたりしてますよね。
また、こっちのプリンのほうが十円安いとか、高いとか気にしたり。
(´∀`)
そんな感じで、あらゆるものを細かく細かくふたつに分けて行くことが大好きです。それが分離した「私」のサガです。そういうもんだと知っておいてください。

んで、

ではでは、です。

「本来の自分」に戻ろうとしているのなら、この分離した「私」と反対の方向に向けばよいのです。小さく小さく、細かく細かくする方向の反対、つまり、どんどん

「おおざっぱ」(・∀・)

の方向に。(´∀`)

こっちのプリンも、あっちのプリンも、どっちも甘くておいしいよね。

こっちの方向に(・∀・)ノ

さらに、プリンがない。だったらダイフクでもミカンの缶詰でもいいや。どれも甘いデザートじゃん。おいしいよ。
さらに、甘いものがない。なら塩辛でもタクアンでもいいよ。甘くなくても、なんか口に入ったらいいじゃん。甘いものも辛いものもどっちもおいしいよ。
さらに、甘いものも辛いものもない。ならもうべつに食わなくていいじゃん。
こんなふうに、どんどん「おおざっぱ」にね。
(´∀`)
キューッとフォーカスしている視点を、どんどん後ろにバックして広げて行く感じです。

小さいところにフォーカスすればするほど、「苦」が増える仕組みになっております。それは、今までの体験でなんとなくわかるでしょ? 
その「苦」を取り除こうと、相反するもの、「楽」を取りに行く。そして、「苦」と「楽」ふたつの両端を行ったり来たりし続けます。小さくて細かいところにフォーカスしている限り、それは永遠に終わることはありません。
フォーカスするのをやめて、一歩さがって見てください。すると、「どっちも大差ない、同じじゃね?」って、なりますよね。
(・∀・)

そうやって、どんどん、どんどん、後に下がって行きますと、最終的に、

「私」も「私以外」も同じじゃね?

に、なるんですけどね。
(´∀`)

それが「全体」、すなわち「ワンネス」です。「ワンネス」を体現している人は、よーするに、

とんでもなく「おおざっぱ」な人

です(・∀・)

「おおざっぱ」な方向に進んでいいんですよ。進むというか後退してください。現代の社会は、小さく小さく細かく細かく細分化されてて、小さく小さく細かく細かく進み、それを考えられる方が「よい」とされいる傾向がありますよね。でも、すべてのことは究極的に、

どっちでもええねん(・∀・)

ということばかりです。

この「どっちでもええねん」のことを、ブッダは「中道」と言い、儒教では「中庸」と言います。
小さく小さく細かく細かく言うと、そうじゃないんですが、ここは「おおざっぱ」に。
(・∀・)つ


あ、このことを、もう少し小さく小さく、細かく細かく説明しましょうか(笑)
続きは、次回以降に。ではでは。
(´∀`)ノ


なぜか九州に散見される、
黄色いポスト(・∀・)
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@宮崎県宮崎市・青島海岸
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@鹿児島県指宿市・西大山駅
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@宮崎県高千穂町・高千穂峡(・∀・)

コリをほぐす

またまた簡単な記事を書きます(・◇・)

みなさんは肩が凝ったときどうしますか?

まあ、ちょっと手でもんだりしますよね。あと、押したら痛いところとか、気持ちいいところを指で押しますね。ま、指圧です。
(´∀`)

では、

心が凝ったときはどうしますか?

まって。心って凝るのか?(´・ω・`)

いやいや、凝りますよ。肩みたいに重くなったり、動かすのがつらくなったりするじゃないですか。
そうして気分がふさがったり、やる気が失せたり、漠然と不安になったりするでしょう?
心だって疲れて凝りますよ。なんせ一日中使っていますから。

んで、そんなときって、たいてい、頭を使って解決しようとしませんか?
思考を使って解決方法を見出そうとしませんか?
何か気分を紛らわすことをしたり、無理やりに元気を出してみたりしませんか?
頭の中で何かモヤモヤしていることとか、グルグルと回っているものを取り除けば、気分が晴れる。そう思っているから、そうするのですよね。

なんで指圧しないの?(´・ω・`)

肩が凝ったときは指圧して、ツボを押しますよね。なんで心のときはそうしないんでしょう?

心もツボを押してほぐしてください(´・ω・`)

「なに言ってんだ、コイツ」って、なっていると思いますが、心も凝って、そのコリとツボがありますので、ツボを押してほぐせばよいのですよ。
(´∀`)

やり方は簡単で、まず心が凝ったとき、つまりネガティブな気分になったとき、それをよーく感じる。私ウリエルがいつも言っている、「感情を感じ切る」ってやつです。
そして、ここからが大事です。ネガティブをよーく感じながら、ツボを探して行くんです。その「ネガティブ感」の中で、いちばん「ビビビ」とくるヤツ。

どういったらいいかなー。感じながらいろいろ思考がめぐりますよね。その思考の中で、いちばん困るヤツとか、いちばん怖いヤツが出てきたときに、思わず「ううっ......!」ってなったりしませんか? 直視したくない思考。いちばん拒否反応が出る思考。

その「ううっ......!」って、なったときの、

『身体反応』(・∀・)

を、しっかり感じてください。胸の奥につかえがあるとか、首筋がピリピリくるとか、手がしびれるとか、こめかみが痛いとか。まあ、何らかの反応が体にでます。

それが心のツボね(´∀`)

あとは、それをひたすら感じ続けてください。その身体反応をより増幅できればなおよいです。
じぃーーーっと、それが変化するまで感じる。ただ感じる。

肩こりのツボも押すと痛いんですよ。心のツボも押すと痛いです。でも、押してください。指で押せないので、押すようなイメージで感じ続けてください。

「ああー…... きくぅー」(´Д`)

って、なるようなイメージで。だんだんほぐれてきますよ。ハッキリとは、わかんないかもしれないけど。

余談になるけど、このツボを見つけ出すことは、「私」が何を握りしめているのか、何をいちばん恐れているのか、それを見つけることにもつながります。


ま、とにかく、

「思考」から入らないでください

心が凝っているときに、あれこれ考えないこと。そんなことをする前に、まず「身体反応」からツボを探してください。そっちのほうがずっと近道で正直なんです。「思考」は偽ることができるんです。でも体は、「身体反応」はウソをつかない。

私たち人間は「思考依存症」なんですよ。
まずは、それを自覚してください。

まあ、騙されたと思ってやってみてくださいな。
半信半疑くらいでちょうどいいです。信じるのもまた「思考」なので。
(´∀`)

つつじ
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場所は大阪空港です
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@兵庫県伊丹市

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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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