わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

2022年08月

「わからない」とわかったんでしょ?

さてさて……(・∀・)ノ

文章を読んだり、話を聞いたり、何かの情報に触れたとき、思考が動き出して、それを理解しようとしますね。そして、その情報に対して、「なるほど」とか「いや、これはちがう」とか、または「なんかよくわかんない」とか、思考が意見を述べます。

今回の記事は、そういう思考を、なるべく使わないで読んでください。
(・∀・)ノ

実は人は思考を使う前に、

驚くべき「ひらめき」(゚∀゚)!

に、触れているのですが、ほとんどの人がいつも見逃しているのです。そのことに気づくために、だから、なるべく思考を使わないで、ただ静止していてほしいのです。
(´∀`)ノ

ではでは……

多くの人たちが、

「私はまだ悟っていないんです」

とか、言ってます。その「私は悟っていない」と言うとき、なんで「私は悟っていない」と、

わかったんですか?(・∀・)

思考は後付けでいろいろな理由を、というかヘリクツをくっつけてきます。それは無視してください。ただ、「え……? なんで!?」のままでいてくださいよー。
(´∀`)

みなさん、いつも「わからない、わからない」って言い続けていますよね。では、その、

「わからない」

と、なんで、

わかったんですか?(・∀・)

本当に「わからない」のなら、自分が「わからない」ことすら、わかってはいないはずでしょう? でも、「わからない」ということに気づいたわけです。ということは、あなたは何かわかっているんですよ!

これって、どういうことでしょうねー……?

(´∀`)

はい、思考のヘリクツはこねないで、ただその場で静止していてくださいね。思考を使い出すと、終わりのない堂々めぐりに行ってしまいます。だから、ただ、「なんで?」で立ち止まっていてください。

「わからない」という体験は何なんでしょう?

「わからない」はどんな感じですか?

(・∀・)ノ

即座におなじみの思考を使い始めないことが大事です。実は思考を超えた何かが、思考を使い出す前にあったことに気づいてほしいんです。それを気持悪く感じる人もいるかもしれません。でも、それ、ホントは素晴らしいものなんですよ。

(´∀`)



さらに、

「真実は何なんだろう?」

と、問うとき、その「問い」はどっから来たのでしょう?

クイズや試験問題を作る人、つまり「問い」を作る人は、その「答え」を知っているから、「答え」があるとわかっているから、「問い」を作れるということに気づいていますか?
そして、その「問い」に答えようとする人も、「答え」があると知っているから、答えようとできるわけです。

ですよね。

では、

「自分の真実はなんだろう?」

「私は誰か?」

と、あなたは、

なんで問えるのですか?(・∀・)


はい、思考のヘリクツは放っておいて、ただそこにいてくださーい。
(´∀`)

どう? 気持ち悪いでしょう(笑)

ハイ。今回はこれだけ。

(´∀`)(´∀`)(´∀`)ノ



旅のスナップ(・∀・)

新潟の「へぎそば」
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フタをパコッと開けると(・∀・)
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富貴亭食堂@新潟県魚沼市

会津坂下(ばんげ)の「冷やしラーメン」
氷浮いてる(´∀`)
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雪花食堂@福島県会津坂下町

伊那の「ローメン」 
羊肉を使った焼きそば風のナゾの食べ物
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シャトレ@長野県伊那市



「約束の地」(・∀・)

聖書の中にこんな場面があります。
モーセが神様に、その名前をたずねました。すると神様はこう答えます。

「わたしは『わたしはある』という者だ」

(・∀・)



みなさん各々、いつでもどこでも、

「自分はここにいる」

という感覚を持っています。ありますよね?

どんな人生になろうと、常に「私はここにいる」はずです。ここにいないのは思考だけです。思考は未来や過去を行ったり来たりして、他の世界へ行ってしまいます。でも、そんな、『いまここ』にはいない思考も、『いまここ』に存在しています。
(´∀`)

仮に、あなたが記憶喪失になって、すべての記憶を失ってしまい、「ここはどこ? 私は誰?」状態になっても、

自分はここにいる」

という、この確かな感覚は、今この瞬間、『いまここ』で感じているものと、まったく変わらないでしょう。

仮に、あなたが赤ちゃんのときに、実は病院で他の赤ちゃんと取り違えられていて、本来歩むべき人生とぜんぜんちがう人生を、現在歩んでいるとしましょう。本来つけらるはずだった名前、本来育ててくれるはずだった両親がいるのです。その本来の人生を、もし歩んでいるとしたら?

もし、本来の人生を歩んでいても、今の人生でも、

自分はここにいる」

という感覚は、何も変わらないでしょう。その感覚はまったく同じでしょう。

そう、

自分はここにいる」

は、人生の物語がどんなものであれ、まったく不変で常にあるのです。絶対的にあります。つまり、物語外の場所にいて、物語とはなーんの関係もないのです。さらに言うと、「私」にまつわるあらゆる概念とも、なーんの関係もないのです。
(´∀`)


物語は常に動き続けています。止まることはありません。それに対して、

自分はここにいる」

は、とても静かです。そして、物語には時間がありますが、

自分はここにいる」

には、時間がありません。常に『いまここ』です。『いまここ』しかありません。そして、思考の中以外で、この場所から離れたこともありません。


自分はここにいる」

は、欲しいものがなにもありません。幸福も悟り体験も欲しがってません。だから、日ごろ「私」と思っている何かは、

自分はここにいる」

に、い続けるのが、ちょっと苦手です。時間も言葉もない世界で、なんの解釈もありません。なので、そんなところにい続けるのは「退屈」で「死」のように感じてしまうのです。だから、常に見て見ぬふりをするのです。けれど、どんなに見て見ぬふりをしても、

自分はここにいる」

のです。確かにね(´∀`)


自分はここにいる」

が、あらゆるものに先んじて、まずあります。これがまずないことには、人生という物語も存在できません。ゼロポイントです。「永遠のゼロ」です。
ここからすべてが展開しているのです。ここが聖書に書かれている「約束の地」なのです。
人生という物語がどっちに行こうが、どんなふうに展開しようが、この「約束の地」がないことには、物語もないんです。

自分はここにいる」

が!(・∀・)

これが『本来の自分』で、「空」で「純粋意識」で「大いなるもの」で、神様で阿弥陀仏で大日如来で、そして「無」なんです。


自分はここにいる」

に、帰るだけなんです。「私」はまだまだ帰りたがりませんが、でも、やがて、あなたも誰もがここに帰るんです。そして、ここに帰ったとき、この『いまここ』のすべてが、常に、

あなたが願うあなた自身

であったことに気づくのです。

なーんも欲しがってなんていなかった(・∀・)ノ



自分はここにいる」

それは、物語のない自分自身というだけです。ただそれだけです。物語のない自分自身、それが

「約束の地」

です。

(・∀・)ノ


旅のスナップ
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海王丸パーク@富山県射水市
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伊香保温泉@群馬県渋川市
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碓氷第三橋梁@群馬県安中市

まったくなーんもない(・∀・)

私ウリエルがよく言う、

「見てるだけーーー」(・∀・)

いわゆる「観照者」です。

客観的に自分を見る、俯瞰することは、誰でも簡単にできることで、そんなに難しいことではありません。ただ、それを続けることは、思ったより難しい。気がつくとやめていますね。
(´∀`)

でも、何か悩みや不安、迷いや葛藤があるときは、穏やかで何もない日常のときよりも比較的、

「見てるだけーーー」(・∀・)

を、しやすいと思いませんか?

そう、そう言った、悩み、不安、迷い、葛藤と言ったものは、より強く『真実』を指し示しているのです。

もちろん「退屈」もそうです。「退屈」も『真実』を指し示している「ゆび」で、たくさんの「ゆび」の中でも、強く『真実』、つまりは『本来の自分』のほうを示しているのですよ。
(´∀`)


んで、その観照者になって、「見てるだけーーー」をしているとき、当然、見られている側があります。観察対象ですね。それは「私」ですね。個人として人格がある「私」を見ています。

そして観察しているうちに、ふと、なんかの拍子に、「私」が、あれれ?

ないよね(・∀・)

ということに気づくかもしれません。

すると、見ている側、「見てるだけーーー」の観察しているほうも、

ないよね(・∀・)

と、なるんですね。どっちもあらへん……

……(・ω・)?

すると、どーんと、「すべてが自分」になるわけです。全体性、ワンネスですね。これが『本来の自分』であると。

どどーーーん

と!(*゚∀゚)っ


こうして文章で書くと、「んなわけねーよ、なんなん……?」、「むずかしいなあ……」と感じるわけです。思考でわからないことなので、それも仕方ないです。見てる側も、見られている側もない。ほな、これなんやねん? と、なりますから。私ウリエルもうまく説明できません。

でも、まあ何も考えずに、ただ「見てるだけーーー」をしているとき、

見ている側も、見られている側もない

ということを、少し意識してみてください。なーんもわかんないなりに。わかんないけど、ときどき思い出してみて。
(・∀・)ノ


もしかしたら、胸や体のどこかに、心地よい感覚も感じるかもしれません。もしあれば、しばらくそれを感じてみてください。思考はすぐに、悩み、不安、迷い、葛藤に戻ろうとしますけど、まあ、慌てて戻らんでもいいや、てなくらいで。

意識してわかるもんでもないし、わかっても、ほな、これなんやねん? となるだけなので、もう理解しようなんてしないほうがいいです。ただ、

見ている側も、見られている側もない

のです(´∀`)

これでいいんです。だから何とか、なんでこうなのかとかは、ありません。なんか知らんけど、こうなんです。

なんか知らんけどこうなので、なーんだ。最初からすべてが、

どーーーでもええ

って、なっちゃいます。これが

『自由』

で、

『歓喜』

そして、

『愛』

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

てな、わけですが、そんなこと思考には想像もできないってだけです。


まあ、わからんなりに、

見ている側も、見られている側もない

ということを、ときどき思い出してみてください。
(´∀`)ノ

旅のスナップ
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会津慈母大観音@福島県会津若松市
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八木沢駅@長野県上田市
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宝登山神社@埼玉県長瀞町

「退屈」から逃げているだけなの(`-ω-´)

人はいろんなことに「情熱」を注ぎます(・∀・)

仕事に、趣味に、子育てに、恋愛に、物欲に、などなど。

家計のやりくり、隣人や家族との対立なんかに「情熱」を注ぐ人もいるでしょう。「悩み」に「情熱」を注いでいる人もたくさんいます。
(´∀`)

「情熱」を注いでいるものが何もない人を見つけるのは難しいです。何もしていないように思える引きこもりの人でも、今はテレビ、ゲーム、インターネット、たくさんの書物があるので、そういったものに情熱を注げます。
さらには、「引きこもりを脱したいけどできない」という「悩み」にも情熱を注いでいるでしょう。

人は常に何かに「情熱」を注いでいるのです。何かに「情熱」を注ぎ、それに熱中するとことが、

「生きている感」(・∀・)

になります。

「情熱」を何かに注ぐと、たくさんの「思い通りにならない」が現れます。

「苦」

です。「苦」が現れると、さらに「情熱」を注げます。それで、さらに大きな「生きている感」を味わえるという仕組みです。

しかし、どんなものもいつかは飽きてしまいます。飽きると新たに「情熱」を注げるものを見つけるしかありません。そして、実際に必ず見つけます。

そこで、ハタと、

どうして「情熱」がいるんだろう?(´・ω・`)

てな馬鹿げたことを考える人は、まずいません。

「どんなことに情熱を注いでも、いつかは必ず飽きてしまうのに、どして?」

と……(´・ω・`)

しかし、大昔に、ホントにそれを考えた人がいました。ブッダです。ブッダはこの情熱によって生まれる「生きてる感」は、どんなものもいつか必ず飽きて消えてしまうので、

実は「ニセモノ」( ;゚д゚)

なんじゃねーか? と、見抜いたわけです。

そして、「情熱」の生まれてくるところが、

「退屈」(`-ω-´)

であることに気づいたのです。人は、

ただ「退屈」から逃げているだけ

ということに気づいたのです。

人は何が何でも「退屈」から逃げます。本当に何もすることがなくなったら寝ます。寝ることすら「退屈」からの逃避だと気づいたのです。
そこで彼は、徹底的に「退屈」から逃げずにいたらどうなるか試しました。菩提樹の下で何年もただ座って、恐ろしいくらい「退屈」と向き合ったのです。

その結果どうなったか?

それは、みなさんがご存知の通り(・∀・)ノ


んで、この現代という時代を生きている私たちは、ブッダのように、何年も菩提樹の木の下にただ座るなんてことはできません。まあ、もし、できる人がいたら、是非してみてください。
(´∀`)
でも大半の人はできないので、そこで、とりあえずは気づいていてほしんです。私たちは常に、

「退屈」から逃げているだけ

ということに。仕事も趣味も、恋愛やセックス、食べること、お酒を飲むこと、テレビやインターネット、音楽、そして、スピリチュアル……
そして、考えることや寝ることすら、

「退屈」から逃げているだけ

にすぎないんだと(`-ω-´)


ネコはほとんど一日中ゴロゴロしています。でも「退屈」はしていないと思います。カピバラなんか動くことすらしません。でも、おそらく「退屈」してないでしょう。「退屈」してないから動かないんです。
なんで、ニンゲンだけ「退屈」するの? そんな疑問を心にちょっと置いておいて、ニンゲンは、

「退屈」から逃げているだけ

ということに、気づいていてください。


気づいていると、少しずつですが何か見え方が変わってきます。ブッダのようにいきなりバーンとではないですが。少しずつね。
(・∀・)


先日、旅に出て、今年は山の木々の緑がなーんでこんなに濃いんだと感じたのは、木々の緑が実際に濃くなったわけではなく、ただ、私ウリエルの

見え方が変わった

だけなんだ! ということに気づきましたよ。

しょーゆーことなんです。

しょーゆーことが、徐々に起こっていくんです。
(´∀`)



旅のスナップ(・∀・)
緑だけでなく、雲もものすごく濃く鮮やかに見えた。
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猪苗代湖@福島県猪苗代町
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@長野県立科町
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吾妻小富士@福島県福島市

「生きている感」(`・ω・´)

さて、旅を満喫して帰ってきましたので、また記事でも書こうかなと。
(・∀・)つ


人には誰にでも、無数の

「思い通りにしたい」(`・ω・´)

があり、その「思い通りにしたい」の数だけ、

「思い通りにならない」(´・ω・`)

が、あります。「思い通りにならない」は、すなわち、そのまんま「苦」です。だから、

「一切皆苦」( ・Д・)

とブッダは言いました。「苦」とは「思い通りにならない」だったのです。


そのことを知った者は、だったら「思い通りにしたい」を捨てれば、「苦」もなくなると思いました。そこで「思い通りにしたい」、すなわち、欲望や欲求を捨てることを始めたわけです。いわゆる「煩悩」を捨てればいいんじゃね? と。

私ウリエルも当初はそうでした。しかし、煩悩は捨てても捨ててもなくなりません。次から次に現れます。キリがありません。そもそも、「煩悩を捨てたい」というのも煩悩じゃないか。というわけで、そりゃ、キリがないわけです。私たちは頭のてっぺんからつま先まで、煩悩で出来ている、

「煩悩具足の凡夫」

だったのです。煩悩を捨てるなんて、最初から出来ないことだったのです。
(´-ω-`)

結局、煩悩を捨てられないのがニンゲンということを受け入れて、

「思い通りにしたい」(`・ω・´)

と、

「思い通りにならない」(´・ω・`)

の間で、あーだこーだしながら生きて行く。そうするしかないんだなと、気づきます。


というかですね(・∀・)

そもそも「煩悩」がないと、この人生という物語がちっともおもしろくありません。なんのワクワク、ハラハラ、ドキドキもなく、もちろん、なーんの「苦」もなく、ただ静かな水面にいるような人生。そんな人生はおもしろくない。そんな退屈な人生は、いやこれ恐怖以外の何ものでもないと、実は内側の深いところで思っているのです。この

「退屈の恐怖」

から、常に逃げたがっていることに気づいていますか?

私たちは煩悩と、そこから生まれる「苦」がないと、退屈なのです。「悟り」がわかって、「歓喜」と「祝福」がわかっても、もしかしたら、

それって「退屈」なんじゃね?

と、どこかで恐れているんです。だから、一瞬、煩悩を通り過ぎて、大いなる「歓喜」と「祝福」を垣間見て、それに満たされそうになっても、

慌てて引き返してしまう(((( ;゚д゚)))

ことを、繰り返しているんですよ。早い話が

悟りたくない(((( ;゚д゚)))

が、瞬時に現れて、大急ぎでそこから立ち去ってしまうんです。長いことスピリチュアルの教えに接していると、なーんとなく、そんな自分に気づきませんか?

「歓喜」と「祝福」は欲しいけど、「退屈」はいらない

そんな自分に。(´∀`)


それでいいんですよ。それは悪いことではありません。そういうふうに出来ているのがニンゲンですから。
結局、ニンゲンって、「煩悩」と、そこから生まれる「苦」を楽しんでいるんです。

「思い通りにしたい」(`・ω・´)

と、

「思い通りにならない」(´・ω・`)

の間で、あーだこーだしながら生きて行くのを楽しんでいるんです。これが

「生きている感」(・∀・)

に、なっているんです。これがないと、つまんない。生きている気がしない。退屈。これ、とーっても大事って。


でもね、実はこの先があるんです。
(´∀`)ノ

この「生きてる感」が、実は作り物だということに気づく。早い話が「ニセモノ」だってことに。

それは、次の記事に書きましょう。じーつーは、もうひとつ大きな次元があるんです。


とりあえずね、今回はここまで。

まずは、この

「生きている感」(・∀・)

に、気づいて、これを何よりも大事にしている自分に気づいてください。「退屈」をものすごーく嫌っている自分に。

ニセモノなんですけどね、

その「生きている感」……

(´∀`)ノ


旅のスナップ(・∀・)
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雄国沼@福島県北塩原村
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岩櫃山@群馬県東吾妻町
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親不知海岸@新潟県糸魚川市
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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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