「私」というものに実体はありません(・∀・)
心と身体をなんとなく、いつの間に「自分」と思いこむようになり、それを「私」だと言っているだけです。この「私」というのは、エゴとか自我とも言われていますが、早い話が、
錯覚
です(・∀・)
「私」というのはとても不安定です。「昨日の私」と「今日の私」で違ったりします。「十年前の私」、「子供の頃の私」と「今の私」ではぜんぜんちがいます。
もちろん、幼いときからずーっと変わってない部分もあって、それこそが「自分」だ、「自分」の本質ではないかと思ったりもしますが、それも
錯覚
です(・∀・)
たまたま変わってないように、思いこんでいるだけです。
「私」という人格、「私」という個人はどんどん変わって行きます。どんどん変わって行く、とても不安定なものです。なぜなら実態がないからです。ただの記憶に集められた体験や情報にすぎないからです。
変わっていないように思っている部分も、変えようとすれば変えることができます。絶対的な「自分」ではありませんので。でも、おおかたの人が変えません。なぜなら、変えてしまうと、もっと不安定になると思っているからです。
この不安定さゆえに、「私」は常に不安感を抱えています。そして、その不安感を埋めるために全精力を注ぐという、
無駄なこと(´・ω・`)
を、しています。
ときどき、もっと「私」を変えよう、「今の私のままではダメだ!」と、「私」の改革を試みることもあります。自己改革、自己啓発なんていうヤツです。前向きで勇気がある行動です。
しかし、「私」をどんなに変えたところで、錯覚の「私」なので、まあ、
無駄なこと(´・ω・`)
には、変わりありません。不安定さがなくなり、不安感がなくなることはありません。
(´-ω-`)
「私」を変えても意味がないんです
しょーゆーことです。
そして、「私」のずっと変わっていない部分も、おおかた、変えようとしてないか、たまたま変わってなかっただけで、それも錯覚にすぎません。確かにあるものではない。まあ、
ただのパターン化された反応
です。実体はありません。不安定であることには変わりません。不安定であるがゆえに、しがみついたりしています。このパターン化された反応を「変えてたまるか」と。変えてしまうと「私」が「私」でなくなるような恐怖をおぼえるからです。
「私」を変えようとすること、変わらぬ「私」でいようとすること、どちらも
無駄なこと(´・ω・`)
です。しょーゆーことです。
(´-ω-`)
そして、この不安定な「私」をなんとか安定させて、安心感を得ようとするのが、
「虚栄心」
と、言えます。べつに他人に見栄を張らずとも、「私」が「私」に対して、大丈夫よとか、本当は強いはずよとか、これで変われるのよとか、今まで通り変わらないわよとか、これが「私」よとか、言い聞かせたりもします。「私」が「私」に張る見栄です。そんなの単なる「虚栄心」です。「無駄なこと」です。
( ̄ー ̄)
さて、スピリチュアルも「私」を変えようと思って始める人がほとんどです。べつにそれは悪いことではありません。「私」を変えればもっとよくなると思っていたけど、いくら「私」を変えたところで「無駄なこと」なんだと気づけば、それは、とても意味のあったことになります。
そして、
心も身体も「自分」じゃない
と、気づけば(^ω^)
ただ、それだけなんです。
じゃあ、「自分ってナニ?」となり、
「わからない」
と、気づけば(^ω^)
「なんかわからん! コレとしか言いようがない!」
これですべてが終わります。でも、コレが「自分」なんです。「自分」以外の何者でもない。
そして、すべてが始まります。ハイ。
心も身体も「自分」じゃない
これに気づくだけなんで、べつに新しい知識はいりません。
「私」を変えようとしていることをやめて
変えないでいようとしている部分を捨てる
だけです。新しいモノも技術もいりません。孤独感を埋める誰かもいりません。探し求める何かでもありません。たった『いま』、瞬時にわかることができますので、どこかに行って学ぶこともありません。
スピリチュアルの新しい知識や技術を追いかけて身に付けることもいりません。それは、
「虚栄心」
を、いっとき満たすので、不安定な「私」が安定したような気になります。が、それだけです。いっときには変わりなく「無駄なこと」です。それは「私」が「私」を維持するためにやっていること、不安定な「私」をなんとか安定させようとしていることで、「自分」とは関わりがありません。なので、もうやめてください。なんなら、このブログも閉じていただいてかまいません。
(`-ω-´)
ああ、時間がなくなった。最近、まぜか時間がなくてまとまらない。
( ̄ー ̄)
根岸競馬場(・∀・)
@神奈川県横浜市
心と身体をなんとなく、いつの間に「自分」と思いこむようになり、それを「私」だと言っているだけです。この「私」というのは、エゴとか自我とも言われていますが、早い話が、
錯覚
です(・∀・)
「私」というのはとても不安定です。「昨日の私」と「今日の私」で違ったりします。「十年前の私」、「子供の頃の私」と「今の私」ではぜんぜんちがいます。
もちろん、幼いときからずーっと変わってない部分もあって、それこそが「自分」だ、「自分」の本質ではないかと思ったりもしますが、それも
錯覚
です(・∀・)
たまたま変わってないように、思いこんでいるだけです。
「私」という人格、「私」という個人はどんどん変わって行きます。どんどん変わって行く、とても不安定なものです。なぜなら実態がないからです。ただの記憶に集められた体験や情報にすぎないからです。
変わっていないように思っている部分も、変えようとすれば変えることができます。絶対的な「自分」ではありませんので。でも、おおかたの人が変えません。なぜなら、変えてしまうと、もっと不安定になると思っているからです。
この不安定さゆえに、「私」は常に不安感を抱えています。そして、その不安感を埋めるために全精力を注ぐという、
無駄なこと(´・ω・`)
を、しています。
ときどき、もっと「私」を変えよう、「今の私のままではダメだ!」と、「私」の改革を試みることもあります。自己改革、自己啓発なんていうヤツです。前向きで勇気がある行動です。
しかし、「私」をどんなに変えたところで、錯覚の「私」なので、まあ、
無駄なこと(´・ω・`)
には、変わりありません。不安定さがなくなり、不安感がなくなることはありません。
(´-ω-`)
「私」を変えても意味がないんです
しょーゆーことです。
そして、「私」のずっと変わっていない部分も、おおかた、変えようとしてないか、たまたま変わってなかっただけで、それも錯覚にすぎません。確かにあるものではない。まあ、
ただのパターン化された反応
です。実体はありません。不安定であることには変わりません。不安定であるがゆえに、しがみついたりしています。このパターン化された反応を「変えてたまるか」と。変えてしまうと「私」が「私」でなくなるような恐怖をおぼえるからです。
「私」を変えようとすること、変わらぬ「私」でいようとすること、どちらも
無駄なこと(´・ω・`)
です。しょーゆーことです。
(´-ω-`)
そして、この不安定な「私」をなんとか安定させて、安心感を得ようとするのが、
「虚栄心」
と、言えます。べつに他人に見栄を張らずとも、「私」が「私」に対して、大丈夫よとか、本当は強いはずよとか、これで変われるのよとか、今まで通り変わらないわよとか、これが「私」よとか、言い聞かせたりもします。「私」が「私」に張る見栄です。そんなの単なる「虚栄心」です。「無駄なこと」です。
( ̄ー ̄)
さて、スピリチュアルも「私」を変えようと思って始める人がほとんどです。べつにそれは悪いことではありません。「私」を変えればもっとよくなると思っていたけど、いくら「私」を変えたところで「無駄なこと」なんだと気づけば、それは、とても意味のあったことになります。
そして、
心も身体も「自分」じゃない
と、気づけば(^ω^)
ただ、それだけなんです。
じゃあ、「自分ってナニ?」となり、
「わからない」
と、気づけば(^ω^)
「なんかわからん! コレとしか言いようがない!」
これですべてが終わります。でも、コレが「自分」なんです。「自分」以外の何者でもない。
そして、すべてが始まります。ハイ。
心も身体も「自分」じゃない
これに気づくだけなんで、べつに新しい知識はいりません。
「私」を変えようとしていることをやめて
変えないでいようとしている部分を捨てる
だけです。新しいモノも技術もいりません。孤独感を埋める誰かもいりません。探し求める何かでもありません。たった『いま』、瞬時にわかることができますので、どこかに行って学ぶこともありません。
スピリチュアルの新しい知識や技術を追いかけて身に付けることもいりません。それは、
「虚栄心」
を、いっとき満たすので、不安定な「私」が安定したような気になります。が、それだけです。いっときには変わりなく「無駄なこと」です。それは「私」が「私」を維持するためにやっていること、不安定な「私」をなんとか安定させようとしていることで、「自分」とは関わりがありません。なので、もうやめてください。なんなら、このブログも閉じていただいてかまいません。
(`-ω-´)
ああ、時間がなくなった。最近、まぜか時間がなくてまとまらない。
( ̄ー ̄)
根岸競馬場(・∀・)
@神奈川県横浜市