わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

2022年12月

恩寵のスペース

私事ですが、私ウリエル、一昨日、期待を裏切られてガッカリすることがありました。
……(´-ω-`)

こういうことは、いつでもどこでも誰にでもあります。目覚めたからといって、べつになくなることはありません。

けれど、そこに

「お決まりのパターン」(`-ω-´)

があるのなら、よく注意をしておく必要があります。期待を裏切られてガッカリだけに限りません。

ケンカをするとき、そこにいつも「お決まりのパターン」がある
落ち込むとき、そこにいつもの「お決まりのパターン」がある
不安になるとき、そこにいつもの「お決まりのパターン」がある

などなど(`-ω-´)

何か苦悩に直面したとき、いつも同じような思考や感情が湧いて、いつも同じような行動をしている。そして、いつも同じような結果になる。そんな「お決まりのパターン」があるのなら、それはまだ気づいていない、エゴの信念、「こだわり」が隠れていると認識して間違いありません。
私ウリエルも、期待を裏切られ、その結果がいつもの「お決まりのパターン」になっていたことに気がついたわけです。似たようなことが以前から何度もあった。同じことを繰り返している。
(´・ω・`)

目覚めたからと言って、エゴの「こだわり」が完全になくなるわけではありません。

何かしら、まだ気づいていない「こだわり」があるみたいだ。では、その「こだわり」とは、いったい何だろう?

と、気づいて、その「こだわり」を暴くことができるところが、「目覚め」のよいところです。古い「お決まりのパターン」から抜け出して、新しい可能性を生きることができます。これが『真実』を体現して生きるということです。
(・∀・)


そこで実践するのが、まず感情をしっかりと感じきること。そして、それを「見てるだけ―」でいること。『瞑想』です。

そして、どうして「お決まりのパターン」になるのか。「どうして?」という疑問を自分自身に向かって投げかけます。『探究』です。

いろんな疑問をひとつひとつ投げかけます。すみずみまで。じゅうぶんに時間をかけて、筋道をたどって行きます。静かに、正直に。
(`-ω-´)
ここで重要なのは、思考で答えを出さないこと。そして、安直な答えに飛びつかないことです。ひとつの「お決まりのパターン」を壊すのに、何週間か何か月かかかるという心構えで取り組んでください。
自分が大事にしていることの「手放し」や、受け入れがたいことの「受け入れ」なども起こってきますが、驚かないでください。『ありのまま』に抵抗しないでください。というか、何が『ありのまま』に抵抗していたのか、正直になって暴いて行ってください。

そのように『瞑想』と『探究』を合わせて行って、彼方の岸からもたらされる『智慧』、『叡智』、『英知』を、ただ待ちます。恩寵を待つのです。
(^ω^)

いわば、

恩寵がやってくるスペース

を、作って待つわけです。
(・∀・)ノ

日常、私たちはたくさんの思考にまみれていますので、思考がギュウギュウに詰まって、

「恩寵が来るスペースがない」

と認識しておいてください。そして、『瞑想』と『探究』、そして『黙考』は、あくまでも、そのスペースを作る行為です。気づきや恩寵を手に入れに行く行為ではありません。恩寵はこちらから取りに行けません。スペースを作って待つしかないということを、しっかりと理解しておくことが重要です。
重要なことなので、もういちど言いますが、思考で出した答えは、どんなにそれっぽくても間違ってますので、ただちに捨ててください。スペースをふさぐことにしかなりません。
(`-ω-´)

恩寵は思いも寄らなかった、神のささやきのようなものです。それがやってきとき、

ア━━━(゚д゚)━━━ッ!!

とか、

ウァ━━。゚(゚´∀`゚)゜。━━ァァン

とか、

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

とか、なりますので、これが恩寵だとすぐわかります。まさに「気づき」です。ハイ。

そして、新しい自分になったことがわかります。もう以前には戻れないというのもわかります。理屈抜きで、ただわかります。それまでひたすら根気よく

「待つ」(´∀`)


以上、ウリエル流の「自由への道」でした。

参考にしてください。

(゚∀゚)アヒャヒャ


空海さんが座って『瞑想』した岩がありまして。
そこからの景色(・∀・)
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それから、ここも修行の地
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ここも。
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空海さん、ほら穴好きですな。穴ばっかり(´∀`)
@高知県室戸市

秘伝! (・∀・)つ

当ブログ「わらうりブー(笑ウリ部)」の秘伝をお授けいたします。
( ̄ー ̄)ニヤリ

「黙考」

です。まあ、秘伝というほどのものでもないんですが。


私たちは情報の海の中で暮らしています。そのせいか「黙考」というものを、すっかり忘れてしまっています。インターネットで、それはさらに顕著になりました。たいていの疑問や質問に対する解答、または解答に近いものは、クリックひとつで得られるようになりました。
現代人はそれにすっかり慣れてしまい、自身の内の深いところから、『智慧』を受け取る方法を、もう完全にと言っていいくらい、忘れてしまっています。


ブッダやイエス、空海に親鸞、彼らはどのようにして、『真実』にたどりついたのでしょうか?
彼らはマウスをクリックできません。スマホも持ってません。本屋さんや図書館もありません。
(´-ω-`)
聖典とされる書物くらいはあったでしょう。しかし、それらは現在読んでも抽象的で難解なシロモノで、わかりやすい解説なんて誰も書いてやくれてません。現在の私たちと同じように、疑問だらけになったことでしょう。彼らはどうやって、そんな疑問に対する答えを見つけ出し、そして『真理』を知ったのでしょうか?

彼らは『智慧』に触れる方法を知っていたのです。自らの中に、『智慧』の源泉があることを知っていたのです。「知恵」ではなく『智慧』
それは『叡智』、『英知』とも呼ばれます。この世界にあふれる情報とは、まったく違うものです。
『智慧』は「知識」とも違います。「知識」は外側から得た情報を集めた記憶にすぎません。

『智慧』は直観的な「ひらめき」です。そして、この『智慧』を受け取る方法が、

「黙考」

です。( ̄ー ̄)ニヤリ


「黙考」のやり方は、とってもシンプルです。ただその疑問を心に抱き続けるだけです。ひたすら忍耐強く。私ウリエルはそれを「ハートに置いておく」と表現しています。その本当の意味するところが暴かれるまで、心に抱いてじっと待つだけ。
( ̄ー ̄)

始めは短いフレーズの文章を「黙考」すると、そのコツがつかめると思います。もちろん、

「ちょっと何言ってるかわからない」

と、疑問になる文章です。例えば、

幸せでいるとは、

未知なるものとして生きること

(・∀・)

みたいなフレーズです。なんか意味わかんないですよね。なんか意味わかんないけど、なんか本当のことを言っているっぽい。そんなフレーズを心に置いて、その指し示すものを直接体験するまで、ただひたすら待つのです。そう「直接体験」なのです。

「わかった!」( ゚∀゚)

が、ただやって来るのです。それは思考を超えているので言葉では説明できません。理屈抜きです。頭ではサッパリ理解できないのに「わかった!」なんです。

そもそも、

「なんか意味わかんない」……(´-ω-`)

と、感じたということは、何かわかっているからなんですよ。何かわかっているからこそ、それが「わからない」と気づいたわけです。本当にわからないのなら、わからないことすらわかりません。
そのわかっている「何か」が隠されて見えていないだけなんです。その隠れているものが『智慧』の光に照らされて暴かれるのを、ひたすら待つのです。「賢者」というのは、忍耐強く待つことができる人です。待てずに答えを誰か他の人に求めるのが「愚者」です。

「賢者」は時間がどれほどかかっても、その答えは必ずもたらされると信頼しきっています。だって本当は知っているのですから。知っているからこそ「わからない」と思えたのです。本当は知っているのに、あきらめたり、他人の意見にすがるのは「愚者」としか言えません。
(´・ω・`)


「黙考」は強力です。100パーセント、その意味することを暴くことができます。「ひらめき」として、突然気づいたり、何か導きのような啓示に出会うこともあります。100パーセントですよ、100パーセント。なので、

「秘伝」(・∀・)

と、しました。


覚者の書いた本の中の、「意味わかんないけど本当っぽい」フレーズや、ブッダやイエスが遺した言葉でもいいです。同時にいくつも「黙考」できますが、これこそ真実ではないかと感じたものを、じっと心に抱き続けてみてください。
慣れてくると、日常の暮らしの中での答えの出ない問題や、人生の岐路に立たされて選択しなくてはならなくなったときも、「黙考」することよって、『智慧』に導かれることがわかってくると思います。学問でも、仕事でも「黙考」は強力になり得ます。
(´∀`)


答えを外側に、誰かに求めることは愚かです。

あなたは本当は知っているのです。わかっているのです。

だから、「わからない」と思えたのです。

自分を信じていいのです。

(・∀・)ノ


空海さんが修行した洞穴。
御厨人窟(みくろど)と神明窟(しんめいくつ)
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向かって左側が御厨人窟。生活用(・∀・)
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右側は神明窟。修行用(^ω^)
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そして、ふたつの洞穴から見える景色は空と海。
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だから「空海」 (´∀`)ノ
@高知県室戸市

「クソつまらない」からおもしろい

ちょいと雑談です。

ただいまニンゲンとして生きているだけ。

私ウリエルは、こんな感覚で過ごしていることが多いです。缶コーヒーのCMの「宇宙人ジョーンズ」みたな目線でこの世界を見ています。
( ̄ー ̄)

このニンゲンという種族は、社会というものを作っていて、どーでもいいことを、さもオオゴトに、なんでも大袈裟にとらえる傾向があります。実に幼稚です。

どれも、ものすごく些細でつまらないことです。シンプルで単純なことを、わざわざ複雑に解釈して、がんじがらめに身動きが取れないようにすることが好きなようです。
それから意味のないものに意味を持たせるのも大好きです。実際、ニンゲンの社会で重要とされるものには、ほとんどが意味がないのです。
( ̄ー ̄)

正直言って、

クソつまらない

です。

あらゆる場面で他人の目を気にし、あらゆる場面でお金を気にし、あらゆる場面でわかりもしない先のことを考え、あらゆる場面で意味のない「幸福」というものを得ようとします。
そう、ニンゲンは勝手に「幸福」という、ただの概念を作り出し、それに向かって邁進するという性質がある種族みたいです。その、ただの勝手に思いこんでいる、思いこみに過ぎない「幸福」と違う状態になると、「不幸」というらしいです。
でも、そのニンゲンが勝手に思いこんでいる「幸福」は、どれひとつとして意味があるものはなく、どれもがきわめて幼稚です。
(´-ω-`)

私ウリエルも、そんなニンゲンのひとりをやっているわけですが、その幼稚さに気づいてしまいました。ニンゲン社会ほど幼稚なものはありません。ニンゲンが考えるどんな「幸福」も、所詮、意味なない幼稚なものです。

クソつまらない

ものなんです。
実際、「幸福」とされるものを手に入れても、すぐに飽きてしまいます。だって、クソつまらないものだからです。でも、飽きると新しい「幸福」をまた勝手に作り出し、それに向かって邁進を始めます。それだってクソつまらないものなのに。でも、ニンゲンはこんな行為を絶対にやめようとしません。もう、バカかと。アホかと……
(´-ω-`)

どんなに「幸福」に恵まれても、お金、健康、人間関係、安全、そして「悟り」に恵まれても、最高の「幸福」を手に入れても、それは所詮はクソつまらないものでしかなく、
私ウリエルも、残りの人生を、このクソつまらないものが、ただ現れたり消えたりする日々を生きなきゃならないことに、本当に辟易してしまいます。

そう、私ウリエルは、どんなことも、ニンゲン社会のあらゆることが幼稚で

クソつまらない( ̄ー ̄)

こんな地点に立っているわけです。これに気づいてしまいました。

だからもう、「幸福」を探すのはやめました。おもしろいこと、ワクワクすること、楽しいこと、ぜーんぶ探すのはやめました。だって、どんなに探しても、クソつまらないものしか見つからないとわかってしまったので。

もう、今すぐニンゲンやめてもいい気分になってます。

「しょーもないものをやり始めてしまったもんだ。早く終わんねーかなー」

みたいな気分です。ニンゲンでいることが、もうクソつまらないのです。
(´-ω-`)

みなさん、スピリチュアルというものに真摯に取り組んで、

『真実』ってなんだろう?

と、毎日思い続けた結果がコレです。古来、多くの目覚めた人たちが、

「人生に意味はない」

と、言っておりますが、よーするにこういうことです。コレが

「絶対の幸福」

だったんです。


……( ̄ー ̄)

この何もかもがクソつまらないと気づいたらどうなるか?

どうなるかといいますとね……

案外、このクソつまらなさが、おもしろくなってきましてね。なんかクソつまらなすぎて。
(・∀・)

意外と、クソつまらないって、おもしろいなって。バカバカしすぎておもしろいって言うのかな、

「しょーもねえーーー!」(´∀`)

って、笑っちゃうような感じですね。もう、毎日、

「しょーもねえーーー!」(´∀`)

って、おかしくてたまんない。もうバカかと、アホかと。

このクソつまらなすぎて、バカでアホなことだけにまみれていることが、いかにも「オレらしい」、ああ、やっぱりこれこそオレ。これだからオレ、まさに自分だなって感じるようなって来まして。

するとね、この世界が凄すぎて。うまく言えませんが、勝手に感謝が湧いて来て、この世界が愛おしくてしょうがなくなって。もう、すべてのものが愛おしいんです。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

古来、目覚めた人たちが『愛』だの、『感謝』だの、『絶対の幸福』だの、『すべてうまく行っている』だの言っておりますが、ああ、なるほどこういうことね、はいはい、そうね。最初からそういうことね。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

と、なりましたとさ。


みなさん、もうこの人生、この世界に、おもろいものや楽しいこと、ましてや「幸福」なんて最初からないんですよ。あったと思ってもどーせクソつまらないものです。それしかないんですから。どんなこともクソつまらないです。一度、その視点に立って世界をじっくり見てください。そこからでないと、

だから、おもしろい(´∀`)

が、見えてこないと思います。

ホントにおもしろかったんです、実は。

最初からおもしろかったんです。

おもしろいことしか体験してなかったんです。
(´∀`)

それを知るには、すべてが

クソつまらない

心境にならないとわかんないと思います。


高知から帰ってきました土佐。
高知と言えばカツオ!(゚∀゚)
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の、タタキでござる(´∀`)
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うまかった( ̄ー ̄)
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@高知県南国市

どんな自分もウソ

「目覚め」(・∀・)

は、もう、みなさんに起こり始めています。私ウリエルには、そうとしか見えないからです。
(´∀`)

強烈な体験を通して「目覚め」を知る人もいるかもしれません。でも、どれほど強烈な体験でも、それは「目覚め」のほんの一部にしかすぎません。「目覚め」は果てしなく深く、終わりを見ることができないものです。

そして、時間というものを通して、それはゆっくりと進んで行きます。私ウリエルの世界に顕われている人たちは、みんな「人生」という時間を使って変化を繰り返しながら、少しずつその深いところに沈んで行っているように見えます。みんなです。みーんな。

それは、私ウリエルが深いところに沈んで行っているからなのかもしれません。この世界は「自分」に他ならないものなので。
(^ω^)


んで、(・∀・)ノ

「目覚め」のもっとも強力な側面は、

真っ白な自分

に、戻って行くということです。

「自分」から分離した「私」という人格は、「私はこういうヤツ」というイメージを無数に持っています。自己イメージというヤツです。そんな自己イメージの集合体が「私」になっています。

これが好きだ
こういう性格だ
こういうことは苦手だ
こんなときはこうする
こんな状況に怖さを覚える
これがいつも気になる
……

意識してわかっている自己イメージもたくさんありますが、もう完全に無意識のものもあります。本当に無数にあって、それらが絡まり合ってギュッと固まっているのが「私」といってよいかもしれません。

そんな無数の自己イメージ、「私ってこういうヤツ」が、これまたたくさんの思考や行動のパターンを作り出しています。それらのパターン化されたものは、その多くがもう、反射的に表現されています。梅干しを見ただけで唾液が出るように。

梅干しを食べたことがない赤ちゃんや海外の人は、いくら梅干しを眺め続けても唾液は出てきません。梅干しは酸っぱいという記憶がないからです。梅干しに関しては、「真っ白」なんですね。
(^ω^)

私たちは、この「梅干しを見たら唾液が出る」ようなことを、日常のいろんな場面でやり続けています。

「こんなときはこうする」

というパターンがいくつもあって、無意識に反射的にそれを出し続けているわけです。このパターンは記憶によって作られています。梅干しを食べたら酸っぱかったという記憶です。
例えば、誰かに否定的なことを言われ、「ムカついた」とします。
本人はそんなことを言われたらムカつくのは当たり前だと決めつけていて、どうしてムカついたのだろうとか、ムカつく以外の選択肢もあるのに、とかは考えることすらしません。そんなことを思う以前に、もうムカついてしまっているので。
(´∀`)
これがパターン化した「私」です。「私」はそんな脊髄反射のようなことをやり続けます。

そして、こんなパターン化した「私」から離れて行くのが「目覚め」です。
(´∀`)


記憶によって作られた膨大な数のパターンを、ひとつひとつ解きほぐしていけばよいのですが、そんなことしている時間が人生にはありません。だから、もう放っておいて離れて行くわけです。

「見てるだけー」(・∀・)

です。

それだけで、不思議と変化が起こってきます。パターンを作っているエネルギーが弱くなって行くのでしょうか。私ウリエルにも、なぜかはわかりません。でも、なんか知らんけど、変化が起こってきます。
そして、「真っ白」だったころの自分に戻って行ってることを、実感できるようになってきます。同時に、「自律」した流れがそこにあって、すべてが完璧で大丈夫なんだということも、なんか知らんけど、わかってきます。
(´∀`)


真っ白な自分

は、とってもユニークです。「私」が思いもしなかったことを繰り出します。パターンがないので、ぜんぶアドリブなんです。なのに、とっても自然でおもしろいことをします。

真っ白な自分

は、自分自身が誰かとか、何者とかを思うことがありません。なので、何をするにしてもテキトーです。自分の立場とかがないので。でも、いいかげんなわけでもありません。

「適当」(・∀・)

なんです。ほどよく、うまく、ふさわしくという意味での「適当」なんです。つまり、「完璧」です。
(´∀`)


そして、「真っ白な自分」には、人間関係がありません。上下関係とか、親子兄弟の関係とか、そんなもの気にもしません。というか、そもそも知りません。

過去の自分自身も知りません。どこで生まれたとか、何をしてきたとか、知りません。前世が何であったとかも、もちろん知りません。

『いま』の自分自身ですら知りません。自らの置かれている位置とか、やるべきこととか、現在の状態ですら知りません。

もちろん、次の瞬間、自分自身が何をするか知りません。ましてや、明日や将来、どんな自分になっているかなんて知る由もありません。

ただ知っていることは、「私」というのもの、「私ってこんなヤツ」というイメージは、

イメージにすぎない

ということだけ、知っています。ただの心象で、確固たるものではない。早い話がウソ偽り、USO800とだけ気づいています。

裕福だとか貧乏だとか、賢いとかバカだとか、優秀だとかドンくさいとか、美しいとか醜いとか、幸福だとか不幸だとか、実は人間でなく宇宙人だとか天使だとか……

自己に抱くどんなイメージも、ただのイメージにしかすぎず、それは「自分」ではない。USO800。ということに気づいています。
(・∀・)
どんなイメージもです。「私はこうだ」と言えるもの、そして「実はこうなんだ」と言えるものも、すべて真実ではないんです。ガチで

真っ白

なんです(^∀^)

「無」です。


ああ、何が言いたいのか、またわからなくなってきました。おまけに、まとめる時間がなくなった。
(´∀`)


まあ、ぜんぶアドリブでいいってことです。

その場の思い付きとアドリブだけで生きてください。

それで「完璧」なのです!

と、強引に終わっておきます。
(´∀`)


姫路城ライトアップ中(・∀・)ノ
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見に来てね(´∀`)ノ

今日までだけど(笑)


だから、なに?(・∀・)

何を記事に書こうかと、いろいろ思うのですが、近頃はなぜかまとまりません。
(・∀・)

というわけで、つらつらと思いつくままに書いていきます。私ウリエルがこんなふうに世界を見て、こんなふうに『真実』に触れているということです。なんかのきっかけになれば幸いです。
(^ω^)


んで、さて(・∀・)

この現実世界には「こわい」情報が飛び交ってあふれています。この「こわい」がいろいろと「私」に仕事をさせます。「自分」、「本来の自分」は、とても繊細で細かい振動を発しているのですが、たくさんの荒い振動に、その微細な振動がかき消されます。

「こわい」(((( ;゚д゚)))

は、とっても荒い振動なのです。

メディアからのニュースを見て、不安や憤りを感じることがいちばん「荒い」部類です。知らない場所や知らない人たちに起きたことに、いちいち反応しなくてよいのです。また、まだ起きてない事にも反応しなくてよいのです。

でも、分離した「私」という人格、自我と呼ばれるものは、「こわい」という恐怖を土台にしていますので、この世界から「こわい」がなくなってしまうと、仕事ができないどころか居場所を失ってしまうのです。だから、いろんな「こわい」に無意識に飛びつきます。それが性です。

戦争や事件、そして災害で人が死んだり、ひどい目に合ったりするのを見聞きすると「こわい」を感じます。別に見なくてもいいのに見てしまいます。「こわい」が必要なのです。
この「こわい」という荒い振動で、繊細な振動をかき消してしまうのにもってこいだから、見なくていいのに見るんです。
(´・ω・`)
言ってしまえば、分離するには「こわい」があり続けないとできません。だから、やみくもに、何が何でも「こわい」を見つけたいのです。


メディアの中でなくても、身近なところにも「こわい」はたくさんあります。
将来、困窮するかもしれません。病気になるかもしれません。誰かから危害が及ぼされるかもしれません。一人ぼっちになるかもしれません。不幸になるかもしれません。ホントに「こわい」はいくらでも見つかります。そして、「私」はそんな「こわい」をつかまえ続けます。「私」という人格を持った個人でい続けるために、

「こわい」は必須だからです

こんな仕組みになってます(・∀・)


そして、人はこれらの「こわい」に対する「安心」や「安全」を求めます。いろんな「こわい」事態に備えて準備をしておけば、「こわい」を排除したり緩めることができます。

この「安心」「安全」、さらには「平和」といったもの。
(・ω・)?

これらは一見、穏やかで静かなものように感じます。けれど、これも実は「荒い」振動なのです。
なぜなら「こわい」という荒い振動から発生したものだからです。「こわい」振動と同じレベルの振動ということです。「こわい」の対極に位置するものにすぎません。平面を横に移動しただけということです。
(´・ω・`)
結果的に、「私」という分離した人格、そして「苦」を維持し強化するだけということです。「私」でい続けるためには、「安心」「安全」もこれまた必須なのです。

ま、早い話、「こわい」と「安心」「安全」の間を行ったり来たりするだけ。でも、それだけで「私」は維持されますので、自我にとっては安心です。安心ですけど「苦」は永久になくなりません。
(^ω^)

ですので、これを学んでください。

真の「平安」そして「幸福」は、「安心」「安全」と、

別次元( ・Д・)

ということ。いくら「安心」「安全」を手に入れても、どれだけ「平和」だと感じても、それが「こわい」の対極にあるものならば、決して、

幸福にはならない( ・Д・)

ということ。ただの「私」、すなわち自我、エゴの強化にすぎないということ。「私」という人格を持った個人でいる限り、「苦」はなくなりませんので。「一切皆苦」
(^ω^)

「本来の自分」が持つ、とても細やかな振動は、荒い振動にかき消されているだけで、なくなっているわけでありません。細かい振動を発し続けています。それを『愛』と、私ウリエルは感じ取っています。荒い振動は放っておいて、そちらに目を向ければよいだけなのですが。真の「安心」「安全」というか、真の「平安」は、求めなくてもここにあるんです。
(^ω^)

私ウリエルにも、いろんな「こわい」が現れますよ。そして、私ウリエルの自我は、それをいちいちつかまえて見せてくれます。

地震が来たらどうするんだ、オイ!
日本もウクライナみたいなことなるかもよ、オイ!
年金ねーだろ、オイ!
身体が言うこと聞かなくなったときどーすんだ、オイ!
悲惨な末路迎えてもしてもしらんぞ、オイ!

てな、かんじで(´・ω・`)

そんな「こわい」に対して、いつもこう言ってます。

だから、なに?(・∀・)

これで、おしまい。
(^ω^)

すると、「私」はしゅーんとなって、どっかに行ってしまうんですね。
「ですよねー、どーでもいいですよねー、そんときゃそんときですよねー、どこにいても死ぬときゃ死ぬし、死なないときゃ死なないですよねー……」
てなかんじで。
(^ω^)

すると、「やるべきこと」がぐーんと減ってしまって、「自由」になって行きますね。空いたエネルギーをどんどん深みに戻せて、すると、すっごいおもしろいことが見えてくるんです。微細な振動に気づけます。具体的な言葉にはできませんけどね。

なんか、やっぱりまとめることは出来ませんでしたが、今回はこのへんで。


だから、なに?(・∀・)

こんなとこがあった。
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須濱神社というらしい
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近くにもまだ知らないところがあるな(・∀・)
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@兵庫県姫路市

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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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