わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

2023年01月

慌ててもとに戻りますので(・∀・)

「本来の自分」というのは無限に広がる意識です。
(・∀・)

私たちは、最初からこの無限に広がる意識なのです。その中に枠を作って「私」という個人を演じているような感じです。

また、無限に広がる意識の中で、小さなカタマリのようになって、縮こまって「私」になっているとも言えます。枠の中で縮こまって常に緊張しています。なぜなら、カタマリの外側は恐怖がいっぱいだからです。
(・ω・)

この小さく固くなったカタマリを、ほぐして広げて行くわけですが、外側は恐怖なので、なかなか一気にはいきません。本当は恐怖でもなんでもないのですが、そう思いこんでいます。
例えば、「死」は、ほとんどの人にとって恐怖です。また、人生のコントロールを失うことも、ほとんどの人が恐怖に感じているはずです。そう思いこんで、縮こまったカタマリになっているのです。
(`-ω-´)

反対に言うと、カタマリの中にいると安心ということです。だから、このカタマリの中から出たくはありません。
実はスピリチュアルをしている人の大半が、このカタマリは残したいのです。この安心できるカタマリは残した上で、「悟り」を得たいと思っています。けれど、それは土台無理だと言うのがわかっていただけるでしょうか?
(^∀^)


ときどき、パッと枠の一部が外れて、カタマリからはみ出すことがあります。知らなかった枠の外側を見ることがあります。「気づき」です。また、枠が一気に全部壊れて、一瞬で無限になる強い体験をする人もいます。見性とか一瞥とか言われるヤツです。けれど、

慌ててもとに戻ります(・∀・)

もとのカタマリに戻ろうとするんです。そういうもんです。そこが安心だと思ってますから。
(´∀`)

もとに戻りたくても戻れない部分もあるので、その場合は新しい枠を作り直します。ちょっと前よりカタマリが広めになります。結果的に安心できる範囲が少し広がることになります。

まあ、こんなことをしているんだとイメージしてください。そうやって枠が徐々に広がって、やがては無限と一致する。絶対的な安心だけになる。しょーゆーことです。
再び枠を新たに作ることも、いけないことではありません。そういうもんですから、しょうがないです。
(^ω^)

よーするに何が言いたいかと言うと、

「本来の自分」に戻るとか、「悟る」とか簡単に言ってますが、それは今の「私」にとって、

めちゃくちゃ怖いこと(((( ;゚д゚)))

なんです。

「悟る」って、「私」にとって、とっても怖いことなんです。枠を取っ払うということですから。恐怖(だと思いこんでいるもの)が、さえぎっていた枠がなくなって一気に押し寄せてきてしまいます。例えば、人生をコントロールすることも失います。「私」が好きだったものを失うかもしれません。「私」がなりたくなかった状態になるかもしれません。だから、慌てて枠を作り直すんです。まあ、以前よりはちょこっと広がってますが。
(^ω^)

また、そんなめちゃくちゃ怖いことを、

「受け入れていく」

と、枠が広がって行くとも言えますね。だから、今まであったのに無意識だった恐怖に出会うと、これは枠を広げるチャンスだと嬉しくなったりもします。
(^ω^)


でも、よくないことがひとつあります。慌てて元に戻って新しい枠を作っているのに、枠なんてもうないと思いこんでいること。

「ぜんぶわかった」
「悟りにいたった」

と、枠内で思いこんでしまうことです。まあ、あんまり言いたくないですが、そういう「覚者」たくさんいます。正直、私ウリエルもそんな時期があったので、それもわかります。まだ枠があって、その外に恐怖がいっぱいある状態なのに、その恐怖をないものに無理やりしています。早い話がウソツキです。自分に対してウソをついているということです。
( ̄ー ̄)
そのようなヘンな「覚者」を見抜く目も、一瞥しても慌ててもとに戻るんだということを理解していれば、みなさんも持てるようになってきますよ。


枠の外に出て行くのは、安心を捨てて行くということです。

安心がまだないところ

に、歩んで行くということです。安心がまだないところが、本当は安心だって気づいて行くことがスピリチュアルです。

安心がないところに歩んでいくのは、誰だって怖いです。だから慌ててもとの安心に戻りたくなります。こういうもんだとわかっていれば、みなさんのスピリチュアルの取り組みも、わかりやすいものになるかなと思います。
出たり戻ったりを繰り返しつつ、徐々に枠が広がっていくのです。そうやって広げていけばいいんです。
(´∀`)


ただ、ちょこっと勇気を出して、もう戻るのをやめることができたら、

一気に世界は広がりますね。

(´∀`)


ごっつい雪の画像が貼りたくなった
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@富山県南砺市

どうしていつもこうなるの?(´・ω・`)

誰にでも、「目を逸らしていること」があります。
(`-ω-´)

意識的に目を逸らしている場合もあれば、気づかぬうちに無意識に、という場合もあります。考えることを避けていること、大丈夫だと言い聞かせていること、などがそれです。他にもいろんな形で現れています。
(´・ω・`)

それらの根っこには「恐怖」があります。実に簡単な話で、私たちは「恐怖」は見たくないのです。だから、そこから目を逸らします。でも、それが私たちの自由な活動を阻害します。そして、同じことを何度も繰り返し、いつまでたっても

うまく行きません( ̄ー ̄)

例えば、ひとりでいるのが寂しいという恐怖から婚活をしているなら、それはうまく行きません。例え相手が見つかって結婚しても、よい夫婦関係は続かないでしょう。
また、老後が心配という恐怖からお金を貯めているなら、思うようにお金は貯まることはないでしょう。

恐怖からの行動は、自律したエネルギーの流れを阻害します。無限の広がりを狭めるとも言えます。そして、その恐怖がある限り、同じことを何度も繰り返します。これが「輪廻」です。「輪廻」というのは前世とか来世とか生まれ変わってどうこうというだけの話ではありません。日々の暮らしの中にも「輪廻」は存在しているのです。


ただ、その「恐怖」に気づけばよいのです。そして、その「恐怖」もまるごと

愛すればよいのです(・∀・)


明らかにそれが恐怖と、日ごろから自分で認めていれば簡単なのですが、そうでない恐怖、目を逸らしすぎて、もう忘れている恐怖に気づくことが、この世界をハッピーにする鍵です。
(´∀`)

なんかいつもうまくいかないなー

どうしていつもこうなるんだろう?

こんなとき、実は心の奥の方に「恐怖」を握りしめているんです。是非、探してみてください。そこに恐怖があるなんて、自分でもすぐに気づかないくらいです。それぐらい、徹底的に目を逸らしているのです。

「大丈夫に決まってる。だって○○だから……」

と、自分勝手な理由付けをして、たかをくくっていたりします。また、

「そんなもんこわくないさ!」

と、強がっていたりもします。じっくりと見つめて探して行かないとわかりません。
(・∀・)


そして、その「恐怖」が見つかったら、ここからがとても大事です。

それを強引に退治するのはやめてください。克服もしようとしないでください。

「おまえか!」(ノ`Д´)ノ

と、その恐怖を責めたりもしないでください。友人として認めて、笑って迎え入れ、そして愛してください。
(゚∀゚)アヒャヒャ

コイツのせいで、なんかいつもうまくいかないし、いつも同じことを繰り返してしまうのですが、それらもぜーんぶ受け入れてください。受け入れられなかったら、受け入れないことを受け入れてください。
そして、その恐怖におびえる感情を、ちゃんと感じればよいのです。その恐怖と向かい合い、ちゃんと震えればよいのです。ちゃんと恐れおののいていなかったから、エネルギーが歪んだり、はみ出してしまい、いらない輪廻を生み出していたのです。

「あはは、やっぱりキミはこわいわ」

と、笑えるようになるまで、ちゃんと感じて、感じ切ってください。
(´∀`)


なんかいつもうまくいかないなー

どうしていつもこうなるんだろう?

……(´-ω-`)

それは明らかに「輪廻」です。そして、そのモトは「恐怖」です。それに気がついたらラッキーと思ってください。

それは、「新たな世界への懸け橋」になるのですから。

実はとってもステキなヤツです。「恐怖」
(´∀`)ノ


アカウミガメ(・∀・)
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ケガをしたカメたちが保護されています
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@徳島県美波町

オープンに( ・Д・)

入院している父や病院から、良い知らせも、悪い知らせも届きます。
(・ω・)

良いと悪いがコロコロと入れ替わるように届くので、まさに一喜一憂です。

良い知らせがやってくると、もちろん、よかったと思います。逆に悪い知らせがやってくると、心配したり不安になったりします。

しかし、私ウリエルはどちらにも

オープン( ・Д・)

な、姿勢でおります。それを心がけております。

悪い知らせがやってくると、父のために何ができるのか? と、真剣に考えます。そんな自分を見て、「ああ、オレはこんなに父を愛していたのか」と、気づくことができます。『愛』を見れるのです。なので、悪い知らせも悪くありません。
ただ起こることが起こっているのです。起こることはコントロールできません。起こることに、オープンでいることが重要です。
(・∀・)

何にも抵抗せず、受け入れて、受け入れて、受け入れて……

ときには、受け入れられないものにも出くわします。それにもオープンでいればよいのです。受け入れられないことを、受け入れればよいのです。それを愛すればよいのです。


オープン( ・Д・)

でいると、あなたの姿勢が変わります。生きる姿勢です。あなたの行動や、口から出る言葉が変わり、世界が変わって行くのです。それを波動が上がると言うのでしょうか、私ウリエルにはわかりませんが、何もしなのにすごいパワーが顕われるのです。

逆に抵抗したり拒むと、それを受け入れることができるまで何度も同じことが起きます。
しかし、どうしても抵抗してしまうなら、何度も同じことが起きることを受け入れればよいのです。
(^∀^)
無理に受け入れても、あまり意味はありません。受け入れられないのは、まだ気づいていない何かに気づくためというのもあるので、受け入れられないことにも、ちゃんと意味があるのです。素直さと正直さが大事です。

素直に正直になって、自分の姿勢を見つめてください。すべては完璧に創られているので、心配や不安になることなんて、実はありません。それでも、心配や不安になってしまうというのなら、それもいいのです。

あなたが物事を良くしようと思っても、基本的にはムダです。というか、もうすでに良いのです。

「すべてうまくいっている」(・∀・)

とだけ言って、ただオープンでいてください。

「すべてうまくいっている」(・∀・)

これを黙考してもいいです。


ああ、でも、わかっていてもすぐ忘れてしまいますね。

でも、それもまた、それでいいのです。
(´∀`)


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夜明け前がいちばん寒い
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@高知県室戸市




「私」っておもしろい(^ω^)

「私」って、

おもしろいと感じませんか?(・∀・)

様々な側面を見せてくれて、まるで百面相です。「私」はこの世界を体験するのに、必要不可欠な道具です。「私」というのは、この肉体であり心です。

「私」ウリエルはそんなふうに見ています。
(^ω^)


この「私」は、人生から不安や不快を取り除き、快適なものにしようと日夜奮闘します。つまり、人生ってやつを幸福にしようとします。ときにはそれに、ものすごく貪欲にもなります。
けれど、何が幸福なのかは、実はぜんぜんわかっていません。
(´∀`)

あるとき、「これが幸福だ」と勝手に思って、それに向かって邁進したりします。でも、実際にその状態になってみると、べつにそれは幸福でもなんでもなかったことに落胆したりします。
また、とても幸福だとは思えなかったものが、実はとんでもない幸福だったことにも気づいて驚いたりします。
(・∀・)
つまりは幸福なんてなんなのか、よく知らないわけです。ぜんぜんわかってないわけです。だのに、人は幸福になることを諦めません。まったくもって、懲りないヤツです。

でも、

それでいいんですよ

(´∀`)

いま、幸福だと思っているものを追い求めたければ、追えばいいのです。それを体験すればいいのです。それが幸福でもなんでもなかったと気づくまで、追い求めてみればいいのです。
また、不幸だと思っているものを回避することをしたければ、それもしてみるとよいのです。それがなんの不幸でもないことに気づくまで。

というか、気づくまでやめることができません。さらには、やってみないことには気づけません。やってみたからこそ、

いま幸福だと思っているものは、明日の幸福ではなく、
いま不幸だと思っているものも、明日の不幸ではない。

ウリエルの「私」は、そのことに気づくことができました。
(´∀`)

幸不幸なんて、ただの思いこみにすぎない。「私」のとある側面が、あるとき「これが幸福」と言っているだけです。その側面が影をひそめると、それは「べつに幸福でもなんでない」になってしまうのです。逆に、また違う側面が顔を出してくると、「こんなの不幸!」と言ったりもします。こんな感じで、「私」はいろんな顔をくるくると見せます。まさに百面相です。

そこで、人はこう思います。

「私」の本性ってなんだろう?

「私」は本当は何を望んでいるのだろう?

つまりは、

「私」はどう生きたらよいのだろう?

と。


あのですね、「私」の本性なんて、

ありません(・∀・)

「私」がそもそも、ないわけですから。

そのとき、そのときの本性はあります。貪欲なときもあれば、無欲なときもある。右に行きたいときもあれば、左に行きたいときもある。それだけです。あることがとても好きなときもあり、好きでないときもある。それだけです、どっしりと置かれた「私」の本質なんてないんです。

だったら、この『いま』顕われている「私」を、ただ楽しめばよいのです。どうせ次の瞬間には、また違う「私」になりますので。ということは、幸不幸もくるくる変わっていきますので。

「いやいや、こんなの絶対に幸福ではない」

と、言っていた「私」が、次の瞬間には、

「あー、これも悪くないわ。いい!」

なんて言ったりしますので、もう放っておけばいいんです。おもしろいヤツだ、「私」ってヤツは。と、見ているだけ。
(^ω^)

でも、不思議です。これをやっているだけで、いろんなことがなぜか「うまくいく」んですよ。そして「自由」であることにも気づきます。ただ、その瞬間にしたいことをすればよいだけですから。

おもしろいヤツだ、「私」ってヤツは

と、思えないときは、「私」という役に没頭しているだけですので、それも放っておいたらよいのです。そしたら、また次の瞬間に何かやらかしますので。
(^ω^)


そんな中、昨日、私ウリエルは、まったく知らなかった「私」の側面に出くわしました。おそらく、新たなものではなく、ずっと前からあった、幼い時からある「私」、引き出しの奥のほーーー……に、あった「私」です。まったく日ごろは思いも寄らない「私」です。

その「私」の好きなようにさせました。その「私」は声を上げて泣きました。常日頃いる「私」は、その「私」の行動に驚きました。なぜ泣いているのかがまったくわかりません。

そして、現れた「私」はすぐに消えて行きました。とても懐かしいヤツでした。

そのあと、なんだか少し世界の見え方が変わっているような気がします。どう変わったのかはわかりません。

でも、なんだかずっと世界がやさしく見えます。

この世界はやさしいです。
(´∀`)

こうやって、人は何かから解放され、深まって行くんでしょうね。すべて完璧に出来上がっています。起こることは完璧です。

何が言いたいのかわかんなくなってきた。

終わることのない旅です。
(´∀`)


姫路護国神社(・∀・)つ
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@兵庫県姫路市




ちょこっと引くだけ

父が体調を崩してしまいました(´・ω・`)

なにぶん高齢なので、いろいろ心配になります。すると、

「また元気になってほしい」

という「願い」が、私ウリエルの中に起こりました。
(・ω・)!


生きていると、いろんな願いが現れては消えて行きます。願いが現れたとき、人はそれが叶うようにいろいろ努力したり、また、神様に祈ったりします。でも、願いが現れたことそのものを喜ぶ人はほとんどいません。

願いがあったほうが、人生の物語はおもしろくなります。なーんも願いがないというのも悪くはないのですが、それだとイマイチ盛り上がりに欠けますよね。願いがあるほうが、味わい深い。
(´∀`)


「本来の自分」(・∀・)

は、この人生を楽しみたいのです。だから願いも体験したいのです。それが叶うかどうかハラハラしたり、またモヤモヤしたり、ひとつの願いでいろんな体験をできるのです。
もちろん、いつも願いが叶うとは限りません。そんなものわかりません。でも、すべてが完璧なので、それもいいんです。

「欲望は手放せ」とスピリチュアルでは説きます。それは間違ってはいませんが、少し幼稚な次元です。欲望だって勝手に湧いて来るわけで、それを無理やり抑圧したってしょうがありません。
ただ、願いや欲望が現れたとき、それを実現しようとしたり、または抑圧しようとする前に、
願いや欲望そのものを、

しっかり味わう(・∀・)

喜びをもってそれを迎えて、願いや欲望そのものを観察したり楽しんだりする。それをすればよいだけです。それが『ありのまま』を愛するということです。そして、この世界を信頼するということにもなります。

「こうなったらいいな」
「こうならないとまずい」
「絶対にこうなりたい!」

いろんな現れてくるものを、まずは愛すればよいのです。そして、「ああ、自分はこんなことを望んでいたんだ!」と驚けばよいのです。それから、すごいな、不思議だな、おもしろいなと、それらをじゅうぶんに味わえばよいのです。そうして、それを体験できることに感謝すればよいのです。
神社に行って神様にお願いするのは、それらをちゃんとやってからにしてください。
(´∀`)
まあ、ちゃーんとしたら、「願掛け」なんてたぶんしなくなるとは思いますが(笑)


この個人としての「私」の心の中には、いろんなものが現れます。怒り、嫉妬、希望、恐怖、願い……
ちょこーっと、一歩うしろに下がって、まずその現れたものを観察して味わうことを、ちゃんとすればよいのです。じゅうぶんに体験したら、それらは消えていくことでしょう。そして、また新たなものが現れます。それの繰り返し。その繰り返しが楽しくておもしろいのだということです。それが体験したくて、この人生を生きていたというわけです。

このことに気づいているのといないのとでは、世界の見え方が変わってきますね。気づいていると、また新たないろんなことに気づけます。不思議なことも起こります。
こうして人は深くなり、「ひとつ」になって行きます。「絶対の幸福」を知って行くのです。
自分自身が『愛』そのものだということも、やがてわかります。


難しいことではありません。正直な『ありのまま』の「私」を、この今の「私」を、一歩引いて見て、それをただ

『愛する』

だけです(´∀`)ノ

それだけでいいんです(´∀`)ノ


三重県に寄って来た。
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四日市はトンテキが名物(´∀`)
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@三重県



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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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