私たちは「本来の自分」を忘れてしまって、自分は体であり心であると思い込んでいるわけです。自分を体や心と「同一視」しているわけです。
(・∀・)

「本来の自分」は「見ているヤツ」なのですが、その自分自身を見る観察者も、頭の中の思考の一部くらいにしか思ってません。これまた「同一視」

そして、この「同一視」によって、新しいナゾの存在が出現しました。それが、

「私」 (゚д゚)

です。ハイ。「自我」とも言います。「エゴ」とも言います。

「私」は体や心や思考を自分と同一視すること、つまり、体や心や思考を自分だと思い込むことよって生まれたナゾの概念です。
「私」は体が自分だと思っているので、自分は「個人」であり、他人とは別々だと思い込むようになりました。さらに言うと、体の外側は自分でない。体の内側だけが自分である。そう思うようになりました。そうして「本来の自分」を完全に忘れてしまったのです。「見ているヤツ」も「私」の思考の一部にしてしまいました。このことを、

「分離」

と、言います。「本来の自分」から離れて、「私」に分離したのです。これをイエスは「罪」と言いました。仏教では「無明」、「無知」と言います。
(´・ω・`)


さて、「私」として生きると、すべてが「苦」になります。なぜなら、本当の「幸福」は「本来の自分」でないとわからないからです。私たちは「本来の自分」を、思い起こさねば「幸福」にはなれません。「私」が「幸福」になるのはムリゲーなんです。

ただ、思い起こせと言われても、そんなに簡単にはいきません。簡単に思い起こせるなら、それって忘れてないのです。
何せ「物心つく」というのが、そもそも「私」の始まりみたいなもんで、その歴史は長い。おまけに、個人の「私」として生きるように、親からも社会からも徹底的に刷り込まれましたので、
「体って、じつは私とちがうんやで」
と、言ったところで、誰もが
「ハァ?」(`Д´)
と、なります。そんな状態から思い出すんですから、これまた、たいへんだ。
(´・ω・`)

でもね、少し時間はかかるけど、必ず思い出せますよ。偉くなくても、賢くなくても、誰でも思い出せますよ。
思い出しても最初のうちは、すぐ「私」に戻ったりしてしまいますが、だんだん戻らなくなって行きますから。「自律」してますので、「本来の自分」にまかせていればいい。

そう、今はわからない。すっかり忘れてしまっているというのも、大きな意味で「本来の自分」のストーリーの一部です。旋律、メロディーなのです。だから、まずは、

「忘れてしまってる」( ̄ー ̄)

と、ちゃんと認識しないとね。それが「ありのまま」ですから。
「忘れてしまっている、でも、これでいい」
と。
思い出せない、思い出したい、どうやったら思い出せるのか、と、騒ぎ立ててもそれは雑音にすぎません。自律したメロディーに覆いかぶせた雑音です。余計に本来のメロディーがわからなくなります。

だけど、雑音が少なくなると、エネルギーが「本来の自分」に戻り始めます。というか、雑音のほうにエネルギーを無駄遣いしていたわけで、それがあるべきところに戻り始めます。

エネルギーが本来の場所で動き始めると、自律したエネルギーになると、そのうち、ひょんなことで「あれっ!?」と、思い出しますよ。エネルギーに思い出させられます。いきなり思い出す人もいますが、徐々に思い出して行くような人もいます。それは人それぞれ。


今はまだ「見ているヤツ」が「本来の自分」という実感はありませんよね。そして、それが先人たちが言った、神で阿弥陀仏で大日如来で、おそらくアッラーでカーリー・マーでアマテラスだなんて思えないですよね。「これのどこが?」という感覚ですね。それは、エネルギーが無駄遣いされているからです。

このエネルギーはものすごい。ブッダは『智慧の光』と言いました。「苦」を照らし、闇をなくすのです。私たちは必死でがんばらなくても、エネルギーの無駄遣いをやめるだけで、「幸福」になって行くようになっているのですよ。

そう、「がんばる」

いっけん、前向きな強い言葉です。でも、「私」がいくらがんばっても「苦」もなくならないし、「幸福」にもなりません。そういう仕組みになっています。なぜなら、「私」が「がんばる」って、ほとんどの場合、「苦」からの逃げ道を試しているだけなのですから。結局、雑音なんですよ。前向きでもなんでもないんです。

「がんばる」という逃げ道を試さないで、とりあえず「苦」をそのまま受け入れる。不安なら不安をそのまま受け入れる。恐怖があるなら、恐怖をそのまま受け入れる。
「見ているヤツ」がそのまま見ている、今の自分自身が、「ありのまま」です。その「ありのまま」を受け入れる。

「ありのまま」を受け入れたら、それからエネルギーが本当にがんばるかどうかを勝手に決めて動き出しますので。それに従えばよいだけです。それでうまく行くのです。うまく行っていないように見えても、

「万事良好」(´∀`)

なんです。

「主の通る道をまっすぐにせよ」と、聖書に書かれていることは、こういうことです。

なんだか、取りとめのない文章になってしまいましたが、今日はこのへんで。
(・∀・)つ

春よ来い♪ 
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武蔵野台駅の河津桜@東京都府中市