アダムとイブが、食べちゃダメという実を食べてしまった、
「罪」 (゚д゚;)
をやっちまってから、全人類は「罪」を背負うことになりました。「原罪」と言います。
これによって人々は、自分はこの広い世界の中に生きる小さな一個人で、自分と他人は別々だと錯覚するようになりました。カンチガイです。そう、「罪」とはこのカンチガイのことなのです。
この「罪」により、ひとつだった世界がふたつに割れました。体の内側と外側という、ふたつの世界になっちゃったわけです。「私」に「分離」したのです。これを
「二元(にげん)」
と、言います。エデンの東は「二元」の世界。
(´・ω・`)
体の内側には、もちろん内臓や骨もありますが、思考や感情が入り混った心もあります。
この思考や感情が入り混じった心、これが体の内側にあって、外側とは関係ないというのも、また錯覚、カンチガイなのです。最大級の「罪」です。
心が体の内側にあって、外側とは別々だという思い込みは、人をものすごく不安にさせます。外側は危険や悪がたくさんあるからです。だから、私たちはその危険や悪から身を守るために、たくさんの信念を持つようになりました。その信念が積み上がったものが「私」です。
(´-ω-`)
「私」は孤独です。だって、体の内側には他に誰もいません。他人は全員、外側にいますから。この危険や悪でいっぱいの外側の世界で生きて行くのには、不安でしょうがありません。だから、仲間や指導者や手下、そして、愛し愛される人を求め続けてしまうようになりました。そして、少しでも「私」が安全で安心できるような状態を作ろうと、彼らをコントロールし始めました。
さらに、少しでも安全で安心な環境をつくるように、財産もため込み始めました。財産をため込むためには、この「私」もコントロールしていかなくてはいけません。
つまり、みんなそうしているわけで、
壮大な「コントロール合戦」!
に、明け暮れているのが、私たち人間です。ハイ。
アダムとイブは、ホントにえらいことをしてくれたもんです。ハイ。
( ̄▽ ̄)
えと、ここまでは前置きです。長かったけど。
(´∀`)ノ
んで、この錯覚、カンチガイに気づいて、本来の自分に戻らないことには、死ぬまでコントロール合戦の戦場で闘い続けにゃならんわけです。これは、たまったもんではない。アダムとイブがリンゴを食べる前に戻らにゃ、しんどいばかりの一生が続く。やはり「一切皆苦」
そこで、ふと思うわけです。思ってほしい。
体の内側と外側が別々だというのが錯覚、カンチガイならば、体の内側と外側は別れていない、ということです。
けれど、内臓や骨は、どう見ても体の内側にあります。外側にあったら、それ、内臓飛び出してますので一大事です。ということは、
心?(´・ω・`)
あれ? 「こころ」って体のどこにあるのでしょうか?
脳ですか? でも、胸の内なんて言葉もありますよ。胸の中ですか?
そもそも「こころ」って、なんなんでしょう?
心って、頭の中で考える思考や、好きとか嫌いとか、快だとか苦だとかの感情、そして記憶が入り混じったよくわからないものですよね。
心も観察できますよ。観察者の「見ているヤツ」になって、自分で観察できるので、本来の自分ではありませんよ。
ここまで書いて、なーんとなく気がついてきませんか?
私たちは何かをごっちゃにして混乱してるのだと。それが錯覚、カンチガイの「おおもと」だって。
あのね、「意識」ってありますよね。朝起きて活動を始めたら、寝るまでずっと「意識」があります。「意識不明の重体」とか言いますよね。その意識。「意識高い系」の意識とはちがいますよ(笑)
自分が今どんな状況で、何をしているかわかっている「意識」です。
この「意識」を心と混同している
これが錯覚、カンチガイです。
「意識」は心じゃないんです。だって、何かに夢中になって無心だというときも意識はありますもんね。ものすごくボケーッとして何も考えない、何の感情もないときも意識はあります。
じゃあ、「意識」ってなんやねん?
あれ?
「空」
じゃ、ありませんか?(´∀`)
この「意識」は心でないのに、心だと思い込んでいるのが「自意識」です。「私」「自我」「エゴ」
なので、全人類、
「自意識過剰」
なんです(´∀`)
本当は「意識」の中に心があるよ。まず、それ、わかってほしいな。
瀬戸内の海
@兵庫県相生市
「罪」 (゚д゚;)
をやっちまってから、全人類は「罪」を背負うことになりました。「原罪」と言います。
これによって人々は、自分はこの広い世界の中に生きる小さな一個人で、自分と他人は別々だと錯覚するようになりました。カンチガイです。そう、「罪」とはこのカンチガイのことなのです。
この「罪」により、ひとつだった世界がふたつに割れました。体の内側と外側という、ふたつの世界になっちゃったわけです。「私」に「分離」したのです。これを
「二元(にげん)」
と、言います。エデンの東は「二元」の世界。
(´・ω・`)
体の内側には、もちろん内臓や骨もありますが、思考や感情が入り混った心もあります。
この思考や感情が入り混じった心、これが体の内側にあって、外側とは関係ないというのも、また錯覚、カンチガイなのです。最大級の「罪」です。
心が体の内側にあって、外側とは別々だという思い込みは、人をものすごく不安にさせます。外側は危険や悪がたくさんあるからです。だから、私たちはその危険や悪から身を守るために、たくさんの信念を持つようになりました。その信念が積み上がったものが「私」です。
(´-ω-`)
「私」は孤独です。だって、体の内側には他に誰もいません。他人は全員、外側にいますから。この危険や悪でいっぱいの外側の世界で生きて行くのには、不安でしょうがありません。だから、仲間や指導者や手下、そして、愛し愛される人を求め続けてしまうようになりました。そして、少しでも「私」が安全で安心できるような状態を作ろうと、彼らをコントロールし始めました。
さらに、少しでも安全で安心な環境をつくるように、財産もため込み始めました。財産をため込むためには、この「私」もコントロールしていかなくてはいけません。
つまり、みんなそうしているわけで、
壮大な「コントロール合戦」!
に、明け暮れているのが、私たち人間です。ハイ。
アダムとイブは、ホントにえらいことをしてくれたもんです。ハイ。
( ̄▽ ̄)
えと、ここまでは前置きです。長かったけど。
(´∀`)ノ
んで、この錯覚、カンチガイに気づいて、本来の自分に戻らないことには、死ぬまでコントロール合戦の戦場で闘い続けにゃならんわけです。これは、たまったもんではない。アダムとイブがリンゴを食べる前に戻らにゃ、しんどいばかりの一生が続く。やはり「一切皆苦」
そこで、ふと思うわけです。思ってほしい。
体の内側と外側が別々だというのが錯覚、カンチガイならば、体の内側と外側は別れていない、ということです。
けれど、内臓や骨は、どう見ても体の内側にあります。外側にあったら、それ、内臓飛び出してますので一大事です。ということは、
心?(´・ω・`)
あれ? 「こころ」って体のどこにあるのでしょうか?
脳ですか? でも、胸の内なんて言葉もありますよ。胸の中ですか?
そもそも「こころ」って、なんなんでしょう?
心って、頭の中で考える思考や、好きとか嫌いとか、快だとか苦だとかの感情、そして記憶が入り混じったよくわからないものですよね。
心も観察できますよ。観察者の「見ているヤツ」になって、自分で観察できるので、本来の自分ではありませんよ。
ここまで書いて、なーんとなく気がついてきませんか?
私たちは何かをごっちゃにして混乱してるのだと。それが錯覚、カンチガイの「おおもと」だって。
あのね、「意識」ってありますよね。朝起きて活動を始めたら、寝るまでずっと「意識」があります。「意識不明の重体」とか言いますよね。その意識。「意識高い系」の意識とはちがいますよ(笑)
自分が今どんな状況で、何をしているかわかっている「意識」です。
この「意識」を心と混同している
これが錯覚、カンチガイです。
「意識」は心じゃないんです。だって、何かに夢中になって無心だというときも意識はありますもんね。ものすごくボケーッとして何も考えない、何の感情もないときも意識はあります。
じゃあ、「意識」ってなんやねん?
あれ?
「空」
じゃ、ありませんか?(´∀`)
この「意識」は心でないのに、心だと思い込んでいるのが「自意識」です。「私」「自我」「エゴ」
なので、全人類、
「自意識過剰」
なんです(´∀`)
本当は「意識」の中に心があるよ。まず、それ、わかってほしいな。
瀬戸内の海
@兵庫県相生市
と思う今日この頃でござんす。
で、先日もウリエルさんが四苦八苦の名言をはかれていたが・・・
私は仏教については全く知識がなく、今、ふと「四諦」という言葉について知りたくなって調べてみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、出生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほど~~~!!!
今まで「仏教」って、お坊さん囲んで饅頭食べることだと思っとった。ヾ(´ω`;)ォィォィ
笑うウリエル
がしました