自分と他人が別々だ、体の内側と外側は別々だ。

この世界の中の、自分はひとりの人間だ。

そういう思い込みをしている状態を、イエスは「罪」と言いました。仏教では「無明」、「無知」と言います。
(・∀・)

これって、生まれて今日まで生きてきた、そもそもの大前提が根底から覆されちゃいますね。でも、イエスもブッダもそう言ったのです。

そもそもの大前提がひっくり返ってしまうと、あらゆるものがひっくり返ります。その最たるものが、

「ひとりじゃない」

だと思います(´・ω・`)


よく言いますよね。「私たちはひとりじゃない」 みんなバラバラで生きているようで、本当はそうではない。孤独だと思っていても、誰かが見ていてくれているし、誰かが傍にいるんだよ。
また、どんなに孤独でも、神様はいつもあなたを見ていますよ。
そんな意味に使われる言葉。
孤独と言うのものは、誰にとっても冷たく寂しいものです。そんな孤独を克服するための言葉、

「ひとりじゃない」(´・ω・`)

古来から現代も、読み物や詩、または歌の中にたくさん出てきます。
「ひとりじゃない」
私たちはそれほどにまで、孤独を恐れ、孤独に苛まれているのです。


あ、でも、ブッダは情け容赦なく、こう言ってます。

「独生独死独去独来」( ・Д・)

「どくしょうどくしどっこどくらい」と読みます。「ひとりうまれ、ひとりしす。ひとりきたりて、ひとりさる」とも読みます。どういう意味かと言うと、読んだそのままです。

生まれてから死ぬまで、人はとことんひとりぼっち

家族だろうが、恋人だろうが、大親友であろうが、分かり合える人などいない

という意味です。ハイ(´・ω・`)
ああ、ブッダはなんて残念なことを言うのでしょう。でも、これが『真理』なのも疑いようがないのかもしれません。
(´-ω-`)


私たちが分離していると、「罪」または「無明」・「無知」でいると、つまり、自分と他人が別々の存在だと思い込んでいると、「独生独死独去独来」は、とてもキツイ言葉です。
でも、「本来の自分」に気づいていると、まったく違う意味になるんですよ。
(・∀・)


「本来の自分」は「意識」です。「純粋意識」(・∀・)
この今ある「意識」の中に、この世のあらゆるものが展開しています。真に存在しているものは、この「意識」だけ。自分の「意識」の外にあるものなどいっさいない。このことがわかりますか?

この「意識」の中に、他人もいますし、山や空や月や太陽もあります。過去の歴史も「意識」の中。
自分の体さえ「意識」の中です。考えることも「意識」の中です。感情も記憶も「意識」の中。そういった「心」すべて「意識」の中にありますね。

そして、「意識」そのものは、まっさらで何もありません。「空」です。そんな「意識」の中にすべてがただ現れているにすぎないのです。だから、

私も他人もいません

ただ、ひとつの「意識」だけです。他人などいないので、他人の「意識」などありません。ただ、ひとつ、この自分の「意識」以外は、何も

ないのです(・∀・)

このことが、わかりますか?
これをブッダは「独生独死独去独来」と言ったのです。


そして、この「意識」はただひとつなのです。他人の「意識」とか、違う別の「意識」とかは、ないのです。「本来の自分」以外は誰もいないのです。なので、最初からもう「2」がないのです。「1」だけ。だから「1」もない。
「ふたつ」とか「みっつ」がないので「ひとつ」もない。
(・ω・)

この「ひとつ」でもない「ひとつ」を、

不二一元

とか、

非二元

という言葉で表現します。「2」がないという意味です。「2」があって、初めて「1」だと言えるわけです。でも「2」がなければ、もう「1」もありません。ただ「これ」なのです。「ひとつ」とも言えない「これ」しかないのです。

ということで、「本来の自分」は、

「ひとりじゃない」

のです。


この不二一元の「本来の自分」を知ると、そこで初めて、人は本当の『愛』を知ることになります。
愛する人も愛される人もいない『愛』 一人も二人もないので、愛するも愛されるも最初からありません。

それは、いったいどんなものなのでしょう?

それは自分で確かめるしかありません。

この「意識」にエネルギーを戻してください。そうしていれば、わかろうとしなくても、それはやがて、勝手に顕われます。
(´∀`)
ただ、この「意識」、それは「静けさ」であり「見ているヤツ」であり「空」です。そこにとどまって待っているだけでよいのですよ。

真の「ひとりじゃない」として生きるとき、「独生独死独去独来」が、『愛』に満ち溢れる言葉だったとわかるのです。



紀淡海峡と友が島
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