探究というのは、「本来の自分」を覆い隠す「私」を崩して行く作業です。
(・∀・)
「本来の自分」は常にあって、あなたは今も「本来の自分」です。「本来の自分」でないことなんてありません。なんせ自分ですから。
(´∀`)
ただ、いろんな信念や価値観といった「思いこみ」で、それが覆い隠されているだけです。
「私はこうだ」とか「私はそうではない」という思いこみ。こんなたくさんの記憶による思い込みを寄せ集めて、こねて丸めたものが「私」という概念です。
「私」は、そんな思い込みをただ寄せ集めたものなので、
実際には存在しません(・∀・)
そんなヤツは本当はどこにもいないのです。だけど、「私」がどこにもいないなんて、「私」にはとても信じられないし、そんなこと想像するだけでもイヤなのです。なので、「私」は何が何でも「私」であり続けようとします。そういう構造になっているんだと、知っておいてください。
さて、そんな何が何でも存在し続けようとする「私」
そんな「私」は、しばしば、トリックのようなものを使ってまで自分自身を欺きます。それは、それがトリックだとは「私」自身も気づかないという、まことに巧妙なものです。「本来の自分」に戻るには、そのことにも気づいて行かないといけません。
(´・ω・`)
んで、
「私はそうじゃない」
という思い。こんなのも、そんなトリックのひとつです。
例えば、ものすごくケチな人とか、ものすごく怒りっぽい人とか、ものすごく自分勝手な人だとか、そういう人に出会ったとき、思わず嫌悪感が湧いてきます。そして即座にこう思います。
「私はああじゃない!」
または、誰かに「あなたは○○ね」と言われて、即座に腹が立つときがあります。
「私はそうじゃない!」
そういう、即座に嫌悪感や腹立たしい気持ちが起こり、それを否定したくなるとき、あなたは、
そうなのです(・∀・)ノ
「あなたはケチ」と言われて、思わず否定したくなったら、あなたはケチなのです。
醜い人を見て、「私はああじゃない」と思うのなら、あなたもその人と同じくらい醜いのです。
「本来の自分」は「不二一元」の存在です。醜いも醜くないもない世界の存在です。なので自分が醜いかそうでないかのジャッジすらできません。自分が悟っているのか悟っていないのかさえも知りません。それがいったい何のか、何も知らないのです。
なので、「私はああじゃない」、「私はそうじゃない」というのも、
「わからない」(・∀・)
のです。
「あなたはケチ」と言われたら、「へえ、そうなんだ!」と思うことしかできないのです。
いっぽう、分離した「私」は「二元」の世界の幻想です。まず「自分はケチ」と思っていないと、「自分はケチでない」と、思うことができないのです。「私にはこんな醜い部分があるのだ」とジャッジして知っているから、他人を見て「私はああじゃない」と思うことができる。
こういう仕組みです。
否定したくなる人の醜さ。それを醜いと思う自分がいる。「私はそうじゃない」と思いたい自分がいる。そのことに気づいたら、
「否定したくなると言うことは、私はそうだ」
「否定したくなると言うことは、私もそうだ」
と、認めてください。そして、自分がそうであることを、ゆるしてください。それが今のあなたの「ありのまま」
認めるのことはイヤでしんどいですよ。でも、そんなの一瞬で終わります。どんどん何かが軽くなっていくような気がしてきますよ。凝っていたところがほぐれていきます。しつこい肩コリもなくなりますよ。マジで。
(´∀`)
自分の中に、自分でも認められないものがある。
それを覆い隠して生きて行く。
なんてしんどいのでしょう。バカバカしいですよね、そんなの。というか、そんなのウソツキです。本音で何も話さない人と付き合っていて楽しいですか? しかも、自分にその本音を話さないのが自分だなんて。
そんなバカなこと、やめましょうよ。
(・∀・)
お茶畑
@京都府和束町
(・∀・)
「本来の自分」は常にあって、あなたは今も「本来の自分」です。「本来の自分」でないことなんてありません。なんせ自分ですから。
(´∀`)
ただ、いろんな信念や価値観といった「思いこみ」で、それが覆い隠されているだけです。
「私はこうだ」とか「私はそうではない」という思いこみ。こんなたくさんの記憶による思い込みを寄せ集めて、こねて丸めたものが「私」という概念です。
「私」は、そんな思い込みをただ寄せ集めたものなので、
実際には存在しません(・∀・)
そんなヤツは本当はどこにもいないのです。だけど、「私」がどこにもいないなんて、「私」にはとても信じられないし、そんなこと想像するだけでもイヤなのです。なので、「私」は何が何でも「私」であり続けようとします。そういう構造になっているんだと、知っておいてください。
さて、そんな何が何でも存在し続けようとする「私」
そんな「私」は、しばしば、トリックのようなものを使ってまで自分自身を欺きます。それは、それがトリックだとは「私」自身も気づかないという、まことに巧妙なものです。「本来の自分」に戻るには、そのことにも気づいて行かないといけません。
(´・ω・`)
んで、
「私はそうじゃない」
という思い。こんなのも、そんなトリックのひとつです。
例えば、ものすごくケチな人とか、ものすごく怒りっぽい人とか、ものすごく自分勝手な人だとか、そういう人に出会ったとき、思わず嫌悪感が湧いてきます。そして即座にこう思います。
「私はああじゃない!」
または、誰かに「あなたは○○ね」と言われて、即座に腹が立つときがあります。
「私はそうじゃない!」
そういう、即座に嫌悪感や腹立たしい気持ちが起こり、それを否定したくなるとき、あなたは、
そうなのです(・∀・)ノ
「あなたはケチ」と言われて、思わず否定したくなったら、あなたはケチなのです。
醜い人を見て、「私はああじゃない」と思うのなら、あなたもその人と同じくらい醜いのです。
「本来の自分」は「不二一元」の存在です。醜いも醜くないもない世界の存在です。なので自分が醜いかそうでないかのジャッジすらできません。自分が悟っているのか悟っていないのかさえも知りません。それがいったい何のか、何も知らないのです。
なので、「私はああじゃない」、「私はそうじゃない」というのも、
「わからない」(・∀・)
のです。
「あなたはケチ」と言われたら、「へえ、そうなんだ!」と思うことしかできないのです。
いっぽう、分離した「私」は「二元」の世界の幻想です。まず「自分はケチ」と思っていないと、「自分はケチでない」と、思うことができないのです。「私にはこんな醜い部分があるのだ」とジャッジして知っているから、他人を見て「私はああじゃない」と思うことができる。
こういう仕組みです。
否定したくなる人の醜さ。それを醜いと思う自分がいる。「私はそうじゃない」と思いたい自分がいる。そのことに気づいたら、
「否定したくなると言うことは、私はそうだ」
「否定したくなると言うことは、私もそうだ」
と、認めてください。そして、自分がそうであることを、ゆるしてください。それが今のあなたの「ありのまま」
認めるのことはイヤでしんどいですよ。でも、そんなの一瞬で終わります。どんどん何かが軽くなっていくような気がしてきますよ。凝っていたところがほぐれていきます。しつこい肩コリもなくなりますよ。マジで。
(´∀`)
自分の中に、自分でも認められないものがある。
それを覆い隠して生きて行く。
なんてしんどいのでしょう。バカバカしいですよね、そんなの。というか、そんなのウソツキです。本音で何も話さない人と付き合っていて楽しいですか? しかも、自分にその本音を話さないのが自分だなんて。
そんなバカなこと、やめましょうよ。
(・∀・)
お茶畑
@京都府和束町
笑うウリエル
がしました