わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

第二章

次元上昇って簡単

この世界は「二元」です(・∀・)

あらゆるものが背反するふたつから構成されています。そして人は、このふたつの間を振り子のように行ったり来たりします。

それが人生です(・∀・)

喜びと悲しみ、成功と失敗、幸と不幸、愛と憎、明と暗、苦と楽......
ふたつの間を行ったり来たり。それは生きている限り終わることはありません。

このふたつの間を振り子のように行ったり来たりせず、その真ん中にとどまることが「中道」ではありません。時計の振り子を真ん中で止めてしまうと時計は止まります。それは「死」です。

行ったり来たりそのものを楽しむこと

それが「中道」です(´∀`)


「本来の自分」は行ったり来たりをしたいのです。悲しみがないと喜びがわかりません。失敗がないと成功がわかりません。苦がないと楽がわかりません。ふたつの両端の間をいったりきたりするから、それらがどんなものか、初めて体験し知ることができるのです。

右も左も分かつことができないもの

どちらも等しく大事

それを知ることが「中道」です。
右と左の真ん中ではありません。

「右でも左でもないから、とりあえず真ん中って言っとこうか」

と、ブッダが思ったかどうかは知りませんが、ま、とにかく、右も左も分かつことができないもの。どちらも等しく同じ価値。と、知ることが「中道」です。

「ふたつじゃないから、とりあえずひとつって言っとこうか」

という「不二一元」と同じノリです。シャンカラがそう思ったのかどうかは知りませんが。


左右の両端どちらか片方だけ取ることはできません。だのに、人間はそれをしようとばかりします。時計の振り子が右に振れているときに止めて、左に行かないようにする。右から左に行こうとしている振り子を、気合で再び右に戻す。
(ノ`Д´)ノ
これはエネルギーの無駄づかいです。いえいえ、無駄づかいですみません。時計はムチャクチャになり、おかしな時間を示します。

ずっと右にとどめることはできません。右に行ったら左に行きます。左に行ったら、また右に戻ります。
お金があるときがあれば、ないときもあります。ないときがあれば、またあるときもあります。
楽しいときもあれば苦しいときもあり、苦しいときもあれば、また楽しいときもある。
この行ったり来たりこそが、かけがえのない体験で、おもしろく楽しいものだという視点に立ってみてください。
行ったり来たりが「生きる」 そして、それを楽しんでいる者こそが、「本来の自分」なのです。
(´∀`)

右だけを取って左は排除なんてできないんです。私たちは振り子時計のように生きていますから。
排除できないのなら、左は左で「これもいい」と受け入れればよいだけです。左は左で存分に味わえばよい。「次元上昇」って、これだけのことなんですよ。とても簡単なんです。

右だけをつかみ取ろうとしていたけれど、左もつかんでみた。これだけで左右に揺れ動く苦しみから解放されます。行ったり来たりがおもしろく楽しいものになる。あなたはひとつの次元を超越したのです。

例えば、お金があるときはもちろん楽しいけど、ないときはないときで、いろいろ工夫するおもしろさや、お金が手に入ったときのうれしさも体験できる。これがないとお金のありがたさもわかんない。貧乏だけど明るく笑っている人たちが、どんな気持ちなのかもわかる。なんて素晴らしい体験なんだろう!

こうなったとき、あなたは「次元上昇」したのです(・ω・)

裕福と貧困という振り子を超越し、振り子そのものを楽しむようになったのですよ。
もう、あなたはお金を失う恐怖から解放されました。収入や支出をコントロールするために、頭を悩ますこともしなくてもよくなりました。また、その頭を悩ますこと自体もおもしろくなりました。「中道」を知り、「次元上昇」したのです。


つまりは『いま』をちゃんと体験しろってことです。

つまりはすべてを許し受け入れなさいってことです。


文章で説明しようとすると、なかなかややこしくなるんですけど、一歩下がって大きな視点で見ればいいだけです。右や左ばかりにフォーカスするのではなく、左右に揺れる、その振り子を見ればよいです。

そして、振り子を見ているだけで、「本来の自分」に戻って行くんですよ。

だって、その見ている張本人が、

「本来の自分」(・∀・)

なんですから(´∀`)


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上神梅駅@群馬県みどり市

おおらかさ(・∀・)

「本来の自分」が、この世界を創り出しています(・∀・)

その創造した世界は、「二元」の世界です。分離した「私」という個人を創ってしまったので、「私」と「私以外」という、ふたつの概念が出来上がってしまいました。肉体の皮膚の内側が「私」で、外側が「私以外」というふうにです。

「私」がないことには「私以外」もないし、「私以外」がないと「私」もありません。

こんなふうに相反するものふたつを対比することでしか、ものごとを認識したり理解したりすることができません。これが「二元」の世界です。
(´・ω・`)

「晴れ」と「雨」
「高い」と「低い」
「寒い」と「暑い」
「正しい」と「間違い」
「善」と「悪」……

ありとあらゆるものを理解するのには、相反するふたつのものを対比しないと、なにもわかりません。
もし、「雨」の日がなかったら、ずっと「晴れ」です。そうすると、もうそれを「晴れ」と思うことすらできません。「雨」を知らないのですから。単なる「そら」です。
「プリン」と名付けられた食べ物は、「プリン以外」の食べ物がないと。それを「プリン」と認識できないのです。もし、この世に食べ物が「プリン」しかなければ、それを「プリン」と呼ばなくていいし、「甘い」とか「辛い」という概念もいりません。単に「食べ物」と呼べばいいのです。
わかりますか?(・∀・)


そして「二元」の世界は、どんどん細かくすることができます。

「プリン」にも「おいしい」と「まずい」があって、さらに「おいしい」にも「あの店よりおいしい」とか「あの店の方がおいしい」とか、どんどん細かく細かく分けて行くことができます。フォーカスするところ、注目するところを、小さく小さく、細かく細かくすることができますね。

そして、分離した「私」は、この小さく細かくする作業が、

大好きです(・∀・)

大好きなんです。このことを知っておいてください。

どんなことでも、小さく細かく、重箱のスミのスミまで知っている人を、「専門家」とか「知識人」と呼んだりしてあがめたりしてますよね。
また、こっちのプリンのほうが十円安いとか、高いとか気にしたり。
(´∀`)
そんな感じで、あらゆるものを細かく細かくふたつに分けて行くことが大好きです。それが分離した「私」のサガです。そういうもんだと知っておいてください。

んで、

ではでは、です。

「本来の自分」に戻ろうとしているのなら、この分離した「私」と反対の方向に向けばよいのです。小さく小さく、細かく細かくする方向の反対、つまり、どんどん

「おおざっぱ」(・∀・)

の方向に。(´∀`)

こっちのプリンも、あっちのプリンも、どっちも甘くておいしいよね。

こっちの方向に(・∀・)ノ

さらに、プリンがない。だったらダイフクでもミカンの缶詰でもいいや。どれも甘いデザートじゃん。おいしいよ。
さらに、甘いものがない。なら塩辛でもタクアンでもいいよ。甘くなくても、なんか口に入ったらいいじゃん。甘いものも辛いものもどっちもおいしいよ。
さらに、甘いものも辛いものもない。ならもうべつに食わなくていいじゃん。
こんなふうに、どんどん「おおざっぱ」にね。
(´∀`)
キューッとフォーカスしている視点を、どんどん後ろにバックして広げて行く感じです。

小さいところにフォーカスすればするほど、「苦」が増える仕組みになっております。それは、今までの体験でなんとなくわかるでしょ? 
その「苦」を取り除こうと、相反するもの、「楽」を取りに行く。そして、「苦」と「楽」ふたつの両端を行ったり来たりし続けます。小さくて細かいところにフォーカスしている限り、それは永遠に終わることはありません。
フォーカスするのをやめて、一歩さがって見てください。すると、「どっちも大差ない、同じじゃね?」って、なりますよね。
(・∀・)

そうやって、どんどん、どんどん、後に下がって行きますと、最終的に、

「私」も「私以外」も同じじゃね?

に、なるんですけどね。
(´∀`)

それが「全体」、すなわち「ワンネス」です。「ワンネス」を体現している人は、よーするに、

とんでもなく「おおざっぱ」な人

です(・∀・)

「おおざっぱ」な方向に進んでいいんですよ。進むというか後退してください。現代の社会は、小さく小さく細かく細かく細分化されてて、小さく小さく細かく細かく進み、それを考えられる方が「よい」とされいる傾向がありますよね。でも、すべてのことは究極的に、

どっちでもええねん(・∀・)

ということばかりです。

この「どっちでもええねん」のことを、ブッダは「中道」と言い、儒教では「中庸」と言います。
小さく小さく細かく細かく言うと、そうじゃないんですが、ここは「おおざっぱ」に。
(・∀・)つ


あ、このことを、もう少し小さく小さく、細かく細かく説明しましょうか(笑)
続きは、次回以降に。ではでは。
(´∀`)ノ


なぜか九州に散見される、
黄色いポスト(・∀・)
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@宮崎県宮崎市・青島海岸
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@鹿児島県指宿市・西大山駅
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@宮崎県高千穂町・高千穂峡(・∀・)

コリをほぐす

またまた簡単な記事を書きます(・◇・)

みなさんは肩が凝ったときどうしますか?

まあ、ちょっと手でもんだりしますよね。あと、押したら痛いところとか、気持ちいいところを指で押しますね。ま、指圧です。
(´∀`)

では、

心が凝ったときはどうしますか?

まって。心って凝るのか?(´・ω・`)

いやいや、凝りますよ。肩みたいに重くなったり、動かすのがつらくなったりするじゃないですか。
そうして気分がふさがったり、やる気が失せたり、漠然と不安になったりするでしょう?
心だって疲れて凝りますよ。なんせ一日中使っていますから。

んで、そんなときって、たいてい、頭を使って解決しようとしませんか?
思考を使って解決方法を見出そうとしませんか?
何か気分を紛らわすことをしたり、無理やりに元気を出してみたりしませんか?
頭の中で何かモヤモヤしていることとか、グルグルと回っているものを取り除けば、気分が晴れる。そう思っているから、そうするのですよね。

なんで指圧しないの?(´・ω・`)

肩が凝ったときは指圧して、ツボを押しますよね。なんで心のときはそうしないんでしょう?

心もツボを押してほぐしてください(´・ω・`)

「なに言ってんだ、コイツ」って、なっていると思いますが、心も凝って、そのコリとツボがありますので、ツボを押してほぐせばよいのですよ。
(´∀`)

やり方は簡単で、まず心が凝ったとき、つまりネガティブな気分になったとき、それをよーく感じる。私ウリエルがいつも言っている、「感情を感じ切る」ってやつです。
そして、ここからが大事です。ネガティブをよーく感じながら、ツボを探して行くんです。その「ネガティブ感」の中で、いちばん「ビビビ」とくるヤツ。

どういったらいいかなー。感じながらいろいろ思考がめぐりますよね。その思考の中で、いちばん困るヤツとか、いちばん怖いヤツが出てきたときに、思わず「ううっ......!」ってなったりしませんか? 直視したくない思考。いちばん拒否反応が出る思考。

その「ううっ......!」って、なったときの、

『身体反応』(・∀・)

を、しっかり感じてください。胸の奥につかえがあるとか、首筋がピリピリくるとか、手がしびれるとか、こめかみが痛いとか。まあ、何らかの反応が体にでます。

それが心のツボね(´∀`)

あとは、それをひたすら感じ続けてください。その身体反応をより増幅できればなおよいです。
じぃーーーっと、それが変化するまで感じる。ただ感じる。

肩こりのツボも押すと痛いんですよ。心のツボも押すと痛いです。でも、押してください。指で押せないので、押すようなイメージで感じ続けてください。

「ああー…... きくぅー」(´Д`)

って、なるようなイメージで。だんだんほぐれてきますよ。ハッキリとは、わかんないかもしれないけど。

余談になるけど、このツボを見つけ出すことは、「私」が何を握りしめているのか、何をいちばん恐れているのか、それを見つけることにもつながります。


ま、とにかく、

「思考」から入らないでください

心が凝っているときに、あれこれ考えないこと。そんなことをする前に、まず「身体反応」からツボを探してください。そっちのほうがずっと近道で正直なんです。「思考」は偽ることができるんです。でも体は、「身体反応」はウソをつかない。

私たち人間は「思考依存症」なんですよ。
まずは、それを自覚してください。

まあ、騙されたと思ってやってみてくださいな。
半信半疑くらいでちょうどいいです。信じるのもまた「思考」なので。
(´∀`)

つつじ
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場所は大阪空港です
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@兵庫県伊丹市

居ても立っても居られないとき

ちょっと簡単な短い記事でも書いてみよう。
(・∀・)

生きていると、「居ても立っても居られない」ときってのがあります。

「何かしないと!」とか、「早く解決しないと!」とか、そんなふうに焦るような気持になってしまうとき。また、「これをしたい!」みたいな、欲求や衝動が湧き起って抑えられないときもありますね。
日々、いろいろ、たくさんありますね。
(´∀`)

この「居ても立っても居られない」、実は二種類ありまして、このふたつを混同しちゃいけません。

分離した「私」が起こす「居ても立っても居られない」と、

「本来の自分」が起こす「居ても立っても居られない」

(・∀・)ノ


分離した「私」から起こる「居ても立っても居られない」は、不安や恐怖が出発点になってます。それに対して「本来の自分」が起こす「居ても立っても居られない」は、歓びからです。
(´∀`)

見分けるのは最初は難しいです。でも、そのことを思考に置いておけば、だんだんわかってきます。だから、頭のスミにでも置いておいてください。これが道具としての思考の有用な部分です。

さて、不安や恐怖で「居ても立っても居られない」とき。
(・∀・)
早くその不安や恐怖を取り除きたいから、「居ても立っても居られない」状態になるわけですよね。モヤモヤやイライラ、そんな不快感といっしょにいることを、一秒でも早く終了したくなるわけです。そんなとき、

じっと静止してください(・∀・)

けっこうしんどいです(笑) でも、そのまま、ただ、

不快感といっしょにいてください(・∀・)


あ、何も起きませんよ。そのときは。ただ、不快で不快でしょうがなくなるだけです。思考は「こんなことして、何になるねん!」と絶叫しますよ。たぶん、

「うおーーーっ!」(ノ`Д´)ノ

って、なります。「居ても立っても居られない」のに、じっと静止するわけですから、そりゃたいへんですな。もいちど言いますけど、静止したからと言って、何も改善しないし解決もしませんよ。当たり前です。改善することも、解決することも「手放す」んですから(笑)

でも、静止してください(・∀・)

そして静止して、ただ不快感をじっと見てください。その不快感から逃げようとして、何かをつかむ瞬間を見てください。逃げようとするエネルギーを見てください。
あ、当たり前ですが、見ても何も起きませんよ。「見てるだけ―」ですから。何も起きないどころか、不快×不快になって、不快の二乗くらいになりますけど、静止してみてください。

そのときは何も起きません。ハイ。
でも、後になって何かが起きますので。騙されたと思ってね。
(´∀`)

『ありのまま』って、しょーゆーことです。流れに任せる、委ねるって、しょーゆーことですので。


一方、「本来の自分」が起こす「居ても立っても居られない」とき。

これも、

じっと静止してください(・∀・)

こっちも静止しまーす。静止して何もしないでください。じっと「居ても立っても居られない」感情を見てください。ワクワクをただ感じていればいいんです。「ワクワクってステキだな」って。
あとは放っておいてけっこう(´∀`)

放っておいても勝手に流れて行きますので。それは思考の考える予定や計画をはるかに超えてますので、なにも考えなくても、

おもしろいことが起こります(´∀`)

勝手に体が動きます。むしろ、何も期待しないほうがいいです。期待していろいろ考えて何かしないほうがいい。これも静止して、身を委ねてください。


ようするに、「居ても立っても居られないとき」こそ、

じっと静止しろ(・∀・)

って、ことすね。

騙されたと思ってね(´∀`)


梅雨の中休み。
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@兵庫県姫路市

同調と調和

人間は「問題」を作って、ワーワー騒ぐのが大好きです。
(´・ω・`)

それが人間です。
(´-ω-`)

そういった人間たちが集まる社会で生きていると、その人間たちが作る「問題」に同調しないと、何かと生きづらいですよね。

本当は『いま』ここには、どこにも「問題」なんてないんですけどね。
(・∀・)

どこにも「問題」がないのに、あたかも「問題」があると大騒ぎしているだけなのです。このコロナ禍を見ていても、そんな感じです。確かにそういった新しい病気は恐ろしいものです。そして、その新しい病で亡くなった方は日本人の0.01%です。

1万人にひとりかあ……(´・ω・`)


さて、そういった「問題」を作って大騒ぎするのが大好きな人間社会で生きていると、その「問題」に同調しないと孤立してしまうわけです。孤立どころか、非難されたり、いじめられたり、たいへんな目にも合うわけです。新しい病より、そっちのほうがずっと怖い。それがまわりの「問題」に同調する大きな要因になりますね。新しい病に対する恐怖より、

そっちのほうがずっと大きい

それが「本来の自分」に背を向けて離れて行く大きな原因になります。
(´・ω・`)

孤立する恐怖、世の中の流れから置いて行かれる、世の中からつまはじきにされる、その恐怖。その恐怖があるから、「問題」に同調してしまうんですよね。誰にだってありますよ。あなただけではありません。

んで、その孤立する恐怖、その感情のエネルギーを内側に見つけて、それを

抱きしめてください

......(・ω・`)


「私」という分離した個人の意識がある限り、必ず恐怖というものがあります。「私」はその恐怖に打ち勝とうとしたり、その恐怖から逃げようと全力で奮闘しているはずです。とりあえず、それをやめる。やめて、ただ恐怖のエネルギーを抱きしめてください。

おびえて震えている仔猫や仔犬を抱きしめるように。泣いている小さな子供を抱きしめるように。

私たちの本質は『愛』ですので、そういったことは自然にできるようになっているのですよ。

だのに、見なかったことにして全速力でそこから走り去っているんですよね。それが「私」がしていることです。


外側の世界に同調することが、調和ではありません。

外側の観念に同調しないとき、つまり孤立しているとき、結局は調和がおこるんですよ。

おもしろいですね(・∀・)


悪魔、サタンは外側にはいません。内にある恐怖がそのまま悪魔、サタンなのです。
それをやっつけるのではなく、ただ

抱きしめてください

抱きしめて、愛してください。

すると悪魔はエネルギー源を失って行きます。その変化、恐怖のエネルギーの質感が変わるのを感じ取ってください。じーっと抱きしめているうちに、調和が自ずと訪れます。


あらゆる恐怖は、じっと抱きしめて愛していると「本来の自分」に帰っていきます。神の元に、阿弥陀仏、大日如来の元に光に戻って昇華していきます。

そして全体性、「本来の自分」の一部になるのです。


青島神社
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@宮崎県宮崎市

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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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