わらうりブー

自由で無限の「本来の自分」を思い起こすこと それを伝えるブログです。

第五章

見守ること( ̄ー ̄)

人生という物語は、当たり前なのですが、

先が見えません( ̄ー ̄)

だから、人は常に漠然とした不安にさいなまれています。まさに「苦」です。
(´-ω-`)

そんな「苦」をなんとかしようと、人はいろんなことを考え、そして行動します。ある人はその「苦」を克服するための努力をし、また、ある人はその「苦」からの逃避を試みます。

しかし、残念ながらそのどちらも、それで「苦」がなくなることはありません。いっとき、なくなったような気がすることもありますが、でもまたすぐに、新たな「苦」がやってくるのです。

そんな堂々めぐりをしているのが、
(´-ω-`)

人ってヤツです(´-ω-`)


では、そもそも、どうして人は不安になるのでしょう?
(´・ω・`)?

まあ、動物より若干かしこいからでしょう。未来を予想できるという点において。
未来に何かしらの期待をするから、不安になるのです。期待と不安はワンセットです。期待するから不安になり、不安になるということは、そこに何かを期待しているからです。

「今より幸福でいたい」
「今のままでいたい」
「安心して生きたい」

そんな期待を未来に投影することが、不安を、「苦」を生んでいるのです。
( ・Д・)!

だから、スピリチュアルではこう教えているのです。

『いま』にいなさい( ̄ー ̄)

と。



なるほど! 『いま』にいればよいのか!( ゚∀゚)

すると人は、「『いま』にいる」そのために努力をし出します。「苦」を克服するため、「苦」から逃避するため。ああ、なんと悲しい性でしょう。だから、スピリチュアルではこう教えているのです。

受け入れなさい( ̄ー ̄)

と。

なるほど、「苦」を受け入れればよいのか!( ゚∀゚)

すると今度は、「苦」を受け入れる努力をします。ああ、なんと悲しい性でしょう。だからスピリチュアルではこう教えているのです。

手放しなさい( ̄ー ̄)

と。

なるほど! 期待を手放せばよいのか!( ゚∀゚)

そして今度は、期待を手放す努力します。さらには努力も手放そうと努力したりと、もはや意味の分からないことをし出します。ああ、なんと悲しい性…… いや、もう、ただのアホなんじゃないかなと。そんな、ただのアホみたいなことしているのが、

人ってヤツです(´-ω-`)


動物より若干かしこいはずなのに、こんなアホみたいなことしているのが人だって、大昔に気づいた人がいます。お釈迦様、ブッダです。そして、彼はこのアホみたいなことから抜け出しました。天才です。

では、彼はどうやって抜け出したのでしょう? 

ただ見守ること( ̄ー ̄)

に、気づいたのです。天才ですね。


生きていると山のようにたくさんの「苦」があります。彼は、それを克服しよとも逃避しようとせずに、ただ見守りました。
「苦」が受け入れられないときは、受け入れないことを見守りました。
そして期待するから不安がある。ならば期待を落とせばよい。でも、彼はそれもしようとせず、ただその期待を見守りました。手放せば「苦」から解放されるとわかっていても、自分から手放そうとはせず、ただ見守りました。

「見てるだけーーー」(・∀・)

です。

ということで、やってください。ハイ(・∀・)ノ

なーんも起きません。見てるだけなので。
なーんも変わりません。見てるだけなので。

何日も何か月も何年も、見てるだけ。

「これ、なんなん?」(´・ω・`)

って、なりますよ。でも、まあ、それも見てるだけ。根気よく見てるだけ。何もかも見てるだけ。心の中にいろーんなものが去来しますが、それを

「見てるだけーーー」
(・∀・)

見てるだけに飽きたら、それも見てるだけ。何かしたくなったら、それも見てるだけ。欲望も恐怖も嫉妬も怒りも、見てるだけーーー。

実際にしたものだけが知ることができる境地があるのです。なるほどなー、すごいなーって。当たり前だけど不思議で、不思議なのに当たり前の境地。

そして、人の世のアホみたいなことから抜け出してしまうのです。


OSHOもこう言いました。

自分を愛し、そして見守りなさい

今日、明日、いつであろうと


あ、いくらしても何も起きませんし、何も変わりませんよ。

だから、抜け出せるんです(´∀`)


何の花かわかんないけど、
きれいに咲いていたので(・∀・)
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@大阪府大阪市

うまく行かないとき (・∀・)

私たちは、人生という物語を体験しているだけです。私たちが人生を生きているわけではありません。
(・∀・)

「私」という架空のキャラクターを通して、「私」という人格を通して、人生を体験しているだけ。ただ目の前にある人生を。
(・∀・)

人生にはいろんな瞬間があって、うれしいときや、悲しいときや、楽しいときもあれば、苦しいときもある。
そんな、あらゆる瞬間、瞬間を、ただおもしろいな、ありがたいなと体験しているだけなので、ただ体験していればよいのです。
(^∀^)


そして、人生には、

うまく行かない(´・ω・`)

という瞬間もたくさんあって、そんな瞬間こそ、とくにステキでありがたい。

そんなときって、

他の人を見るように、この「私」を見る

が、とってもしやすいので(´∀`)


うまく行かないとき、まるで他の人を見るように、ただ「私」を見ればいいのです。

不安になるとき、苦しいとき、そんなときも同じです。他の人を見るように、ただ、自分自身を見てください。

このときの、ちょっとだけ、なんかうまく行っているような、なんか自由なような感覚が、なーんかどこかにうっすらありませんか?

ほんのわずかかもしれないけど、ありませんか?

なんか、「とりあえず大丈夫なんじゃね?」みたいな感覚が。ありますよ、ないはずないですよ。
(・∀・)ノ

それには、なんの根拠もありません。なんか知らんけど、ただなんとなくです。なんか知らんけど、「なんとかなる」みたいな感覚です。そこにもっと関心を向けてください。

「うまく行かないとき」

は、自分が何でないかを知るための贈り物なのです。

思考は、

「なんとかなるわけねーだろ!」(ノ`Д´)ノ

って、叫び続けていますよ。それで「なんとかなる」を排除しようとしますよね。いいんです、叫ばしておけば。そんなヤツ放っておいて、「なんとかなる」のほうに注目していてください。
(´∀`)

ただ、関心を向けて注目しているだけ。何も努力しなくていいです。すると、なんとなく「なんとかなる」に、いられ続けることができますよ。

そして、そのまま、なんの根拠もないけど、ただなんとなく「なんとかなる」という感覚、または感情。そのままそこに立っていればいいんですよ。そこにい続けてください。

するとね、眠っていた「本来の自分」が刺激され、目を覚ましだします。
(*゚∀゚)!

そして、それは、この世界のあらゆるものを刺激して、あらゆる生命をも刺激します。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


だから、私ウリエルは、

うまく行かない(´・ω・`)

が、ちょっと好きです。いや、けっこう好きかも。「このままでは、人生ダメになるな」くらいの、

うまく行かない(´・ω・`)

が、好きです。ハイ。

「本来の自分」といっしょにいて、「本来の自分」でいることができるので。
(^∀^)


万事良好です。想像をはるかに超えて、すべてはうまく行ってます。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \




ザクロの木
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花博記念公園@大阪府大阪市

祈ること(・∀・)

あらゆること、ものが、この意識の中に顕れています。たったこの、

『いま』(・∀・)

に。(´∀`)


すべてのこと、ものがこの意識の中に存在していて、すべてのこと、ものは知覚しているから存在しているわけで、知覚していないのに存在しているものなんてない。

これは、わざわざ悟らなくともわかると思うんです。とても当たり前のことなんで。わかりますか?
(´∀`)

すると、この意識は「空」です。まっさらでなーんもありません。「無」のはずです。

でも、ぜんぜん、神様でも阿弥陀仏でも大日如来でもねーじゃん。
( ̄ー ̄)

と、思われると思いますが、実はそうなんです。そうとしか言えないんです。あなたがまだわからねーだけです。
(^∀^)
でも、だんだんわかってくるし、または、いつかあるとき唐突にわかったりもします。それを根気よく待ってるだけのことなんです。

この意識、「空」こそが、「本来の自分」です。自分だと確かに言えるものが、これしかないので、「これ」としか言いようがありません。この「これ」でい続けることに、私たちはあまり慣れてません。だからすぐに、「これ」であることをほっぽらかして、「これ」でないものを自分にしちゃいます。それが習慣化してます。かなり根深くね。

この「これ」でない自分というのは、記憶で作った「自分像」です。
(・∀・)ノ



と、ここまでが今回の記事の前置きです(^ω^)

この記憶で作った「自分像」に、さらに記憶から作った「理想の自分像」もあるわけです。
いわば「現在の自分像」と「理想の自分像」があるわけです。ありますよね?
このふたつの「自分像」が、常にケンカしているわけです。このことに気づいていますか? しゅっちゅうケンカしますよね?
(・∀・)

んで、ケンカしてるんだとわかれば、それでいいんです。まあ、だいたい「理想の自分像」が「現在の自分像」をいじめています。そこで、

「ケンカはやめてー!」

と、仲裁に入る必要はありません。

「自己分裂しとるなー、あははは」

で、いいんです。ハイ。

ほうほう、なるほど。自己分裂、自己分裂。今日も相変わらず自己分裂しとるなーと、やりたいだけやらしておいていいんです。

やりたいだけやらしておく。「見てるだけー」です。

見守るだけ(・∀・)

この意識の中でふたつの「自分像」が葛藤しているんです。それを「見てるだけー」
(^ω^)

見守りながら、注意を払っておいてください。ボケッとしていると、すぐに「自分が葛藤している」ように乗っ取られてしまいますから。葛藤しているのは自分ではないんですよ。ただの妄想と妄想のぶつかり合いです。どちらも妄想なんです。

どちらも妄想と気づいていれば、それは『叡智』とか『知性』とか『仏心』とか『智慧』と、接続している状態になっているんです。接続していれば、そのうち新しい見方や考え方、素晴らしい、おもしろい見方や考え方が、そして行動が、パッと与えられるんです。すると「受け入れる」、「手放す」が自然に起こります。なにも無理なく、ごく自然に。
(・∀・)
そして、それは想像することもできなかったものであるはずです。


「只管打坐(しかんたざ)」

ただ座れ。座ればわかる。と、禅で言っているのは、こういうことです。イエスの言う、

「懺悔」、そして、

「祈り」

も、そういうことです。妄想の「自分像」をちゃんと見ないことには、懺悔して祈れませんから。「自分像」の葛藤、それらの行いを赦してください、救ってくださいと、そして、教えてくださいと、「主」、つまり「本来の自分」に、ただ祈って待つわけです。
この意識しかねーんだから、それが「主」です。それしかないから。


この意識の中で、すべてが展開しているんです。たったこの、

『いま』(・∀・)

に。(´∀`)

それだけわかっていれば、もう十分。

明石海峡(・∀・)つ
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と、明石焼き(´∀`)
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@兵庫県明石市

「本当の出会い」(゚∀゚)!

私たちはいろんな人に出会います。

でも、本当は、

自分自身にしか会ってません(´∀`)

このチョー単純な事実に、ほとんどの人が気づきません。


この体が自分自身と思っている限り、出会う人はどんなに親しい人であっても、家族であっても、すべて「他者」で、自分自身と他者は別の人格だと思いこんでいます。

「実はそうじゃないんじゃね?」(´・ω・`)

と、思うことすらしません。


この体こそが自分自身という感覚は、あまりにも当たり前に、あまりにも強烈に馴染んでしまっているので、簡単には手放せないのも理解できます。
でも、この体こそが自分自身という感覚でいる限り、そこには常に、

「孤独を解消したい」
「安心、安全でいたい」

という欲求があります。というか、それがすべての行動原理になります。そして、

「孤独を解消したい」
「安心、安全でいたい」

という欲求から出発した行動は、かならず「苦」になります。孤独も解消できないし、安心、安全も得ることは永遠にできません。
( ̄ー ̄)

これが、あなたのいる世界の仕組みです。
( ̄ー ̄)


例えば、誰かに会いたいと思ったとき、また会いたくないと思ったとき、会いたい、会いたくないという思考や感情は、誰もが認識します。

「私はあの人に会いたい」
「私はあの人に会いたくない」

でも、

「私はあの人に会いたい」
「私はあの人に会いたくない」

という思考や感情を見ている者がいるということを、ほとんどの人がうっかり忘れているわけです。他者に向かって起こる思考や感情を体験している自分自身がいる。それこそが自分自身で、

「私はあの人に会いたい」
「私はあの人に会いたくない」

という思考や感情が

自分自身というわけじゃない( ̄ー ̄)

このことを、ほとんどの人が完全に忘れている、というか、もうシャットアウトしてしまっているんですよね。
(・∀・)
なんでシャットアウトしているかといと、シャットアウトしてないと「私」、エゴが存在する余地が消滅しちゃうから。「シャットアウト=分離」なわけです。ハイ。
(・∀・)

では、このシャットアウトを解こうとしたら、どうしましょう?

「私はあの人に会いたい」
「私はあの人に会いたくない」

という思考や感情がありますよね。これをまず、しっかり味わってください。味わっている者こそが自分自身なんです。それ以外に自分はいませんよ。でも、味わっている者は確かにいます。

「私はあの人に会いたい」
「私はあの人に会いたくない」

というのは、ただの思考や感情で、現れたり消えたりします。光ったり消えたりする点滅信号みたいなもんです。それをただ見て体験している者だけがいます。

「孤独を解消したい」
「安心、安全でいたい」

も、ただの点滅信号です。現れたらそれを見て体験して、消えたら体験していない者だけがいる。その者が自分自身です。
(・∀・)

私たちはその見方を忘れてしまって久しいし、ぜんぜん慣れてないので、そんな見方をいつもすることは、なかなか困難です。ですから、少々、しつこくやるしかありません。
思考や感情が現れたら、

「そうかー、これが会いたいかー」
「そうかー、これが会いたくないかー」

「そうかー、これが孤独かー」
「そうかー、これが不安かー」

って、ただただ味わっていろいろ体験し続けて、クセにしてくださいね。しつこく、しつこくね。


するとね、

「本当の出会い」

が、時間や空間を超越したところで起こるんですよ。勝手にね。

「本当の出会い」

これが具体的にどんなものかは、表現することはできません。無数のパターンがありますので。みなさん自身が、身をもって体験し理解するしかないんです。出会う対象は人とは限りません。
それは神秘とも言えるし、不思議不思議の摩訶不思議。楽しみにしていていいと思いますよ。
(´∀`)


すべての出会いは、この自分自身の中だけに起こります。それも完璧なタイミングで。

結局、自分自身にしか会えないんです。
(´∀`)ノ


バラが咲く季節
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(´∀`)@兵庫県姫路市

「自分」はどこにも発見できません

私たちは、そもそも自由なのです。

本来、自由なのです(´∀`)


でも、なんかわかんないけど、日ごろ、その自由を感じることができません。実は、なんかわかんないけど、ではないんです。その理由はハッキリしております。

自分ですー( ̄ー ̄)

と、思いこんでいるものがあるからです。
( ̄ー ̄)


「これが自分だ」と思っているもの、例えば、この体。そして、この心、人格。それ、自分じゃないんです。このブログでいう「本来の自分」ではありません。
(^∀^)ノ
でも、こう言われると、頭の中にこんな思考が浮かびます。

「じゃあ、自分ってなに?」
「本来の自分って、どんなもの?」

残念ながら、

「ええ、これですよ。これが『本来の自分』ってヤツですわ」

と、説明することも、指し示すこともできません。どうしようもないんです。ただ、自分っぽいもの、自分だと考えられるものすべて、

肉体、名前、年齢性別、職業、
性格、個性、行動様式、
今まで生きてきた経歴、家系図の中の位置、この世の中での立ち位置や役割、生きた証と言えるもの……

「自分ってこれです、こんなのです」

と、指し示したり、言い表せたりできるものすべてが、

「自分じゃない」(・∀・)

と、わかるだけです。これが自分ですなんて言えるものが、どこにもないとわかるだけ。
(^∀^)

自分と言えるものがどこにもないとわかれば、それでいいんです。「私はいない」です。
「私」はいないので、代わりに「本来の自分」が、どこかにいるのと思ってしまいがちですが、「本来の自分」もいないんですよ。自分と言えるものがどこにもいないのが「本来の自分」なんです。

「大いなるもの」とか「サムシンググレート」とか「真理」とか「神様」とか、それを何と呼ぼうがかまいませんが、そんなもんは、とりあえず、

どこにもいねえ(^∀^)

ことを、まずわかってください。

ここでいつも言ってる「見ているヤツ」も、確かに見てはいるんですが、正確に言うと「ヤツ」はいないんです。「見ている」しかないんです。コイツが「見ているヤツ」と言えるもんは、実はいません。


どこにもいないのに、確かに存在している、だから「ただ在る」とか「これ」なんて言い方になってしまうんです。この仕組みを言葉でちゃんと説明出来た人は、古今東西、たぶんおりません。ないのにあるんです。どこにもいないのに、確かあるんです。
(⌒?⌒)

しょうがないですよね。だから「奇跡」とか言っちゃうわけ。あり得ないことが起こってるんだから。「ないのにある」って、あり得ないでしょ?
(´∀`)

でもね、どこにも自分がいない、どれも自分じゃないという見方に思考は慣れてません。というか、思考ではわかんないんですよね。なんかわからなさすぎるので、『誰だかわからない』さんと、私ウリエルは以前は呼んでおりました。わかんなすぎるけど、確かに存在している。結局、その意味不明、不可解極まりない、ただ存在している存在以外は、自分と言えるものがなく、それを「本来の自分」とする以外にない。てな、わけです。ハイ。


よーするに何が言いたいかと言うと、すべて、ありとあらゆる自分っぽいもののすべてが、

「自分じゃない」(・∀・)

という見方に、まず慣れるようにしてください。ということです。
(´∀`)

だって、「確かにこれが自分」といえるものなんてあります? 昨日までの自分と今日の自分は同じですか? 記憶喪失にもしなって、「確かにこれが自分」という記憶を失ったら、どれが自分ですか?
まあ、せいぜい「確かにこれが自分」と言えるのは、この肉体だけになると思うんですけどね。心なんて一瞬で変化しますよ。記憶もあやふやですよ。ただの思い込みで、事実とちがうかもしれませんよ、その記憶。
そもそも、その名前も家族も、本当のものではないかもしれませんよ。あなたは赤ん坊の時に橋の下で拾われたのかもしれません。
いやいや、というか、実はあなたは何年も前に死んでいて、実は幽霊なのに、それにあなたもまわりも気づいていないだけかもしれません。すると肉体ですら自分と言えなくなってします。絶対そうでないと証明できますか?
そんなこと思っていくと、確固たる自分と言えるものがどこにもない。と、なりますよ。

んで、思考が理解できる限界はここまでで、この先はいくら考えても行けません。ここが終点。そこで立ち止まっていればいい。


どれも「自分じゃない」なんて、ちょっとしたホラーに感じるかもしれませんが、そんなに恐ろしいもんではありません。それどころか、すっっっげーーーことなんです。

完全な自由.。゚+.(・∀・)゚+.゚

な、気持ちになるんですよ。そして、あらゆる起こることに対して、「受け入れる」も自然と起こり、どんなときにも正常な行動をとるようになるんです。自律しておりますので。

もう、「うれし、うれし」です。

それだけになっちゃうんです。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \



大きな木(・∀・)
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大木って、傍に立つだけでよい気分になりますね。
不思議(´∀`)
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「海潮のカツラ」@島根県大東町
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プロフィール

笑うウリエル

「わっかっちゃった人」俗に「覚醒した人」というらしい。
この世が面白くて楽しくて仕方なく、それをみんなに言いふらしたいだけのバカ。旅人でもあり、言いふらしにどこへでも行くもっとバカ。
ちなみに職業は、たこ焼屋さん

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