さてさて、私ウリエルの日常も少し平静さをとりもどし、
WBCもオータニさんの独壇場で、最高の結果で終わりましたので、また、ぼちぼち記事を書いていきましょうかと。
それにしても、まるでオータニさんのために大会をしたみたいでしたね。
(^ω^)
人生は野球のように「ゲーム」だと見ることもできます。
この「意識」の中で展開するゲームです。
(・∀・)
ゲームなので、なんでも思い通りにスイスイと事が運んでしまうと、ちっともおもしろくありません。真剣味も薄れます。途端につまらなくなってしまいます。
やっぱりなかなか達成できなかったり、些細なミスで大きく展開が変わったり、とても越えられなそうにないピンチが出現したりと、困難が次々にやってこないとゲームとしてはおもしろくないんです。
つまり、私たちは、「苦」を「意識」の中にわざわざ作り出して、それを楽しんでいるんです。
そもそも、まず「苦」がないと、楽しいやうれしいといった「歓喜」もわかりませんし、「苦」はゲームをとても味わい深くおもしろいものにする、必要不可欠な要素です。
ゲームを楽しむには
「苦」をつくらないといけない
わけです。
そして、「苦」をつくり出すには、何か規制やルールが必要です。
(・∀・)ノ
例えば、高校野球は高校生しかできないという規制があります。高校生同士がやるから、ゲームになります。高校生とメジャーリーガーでは、ゲームになりません。
また将棋の駒は、それぞれ動き方が決まっているというルールがあるからゲームになります。どの駒も自由に動けたら、そんなもん将棋になりません。きっちりと厳密にそのルールを守らないと、ゲームになりません。
そして、この人生という「ゲーム」も、規制とルールがあって、それらは厳密に守られています。
例えば、働いたり、何か買ったりして、お金が増えたり減ったりします。これはとても厳密なルールに乗っ取ってプレイされています。何か買い物をすると、お金が減ります。買い物をしたら財布の中身が10倍になったということは、まず起きません。それどころか一円も増えません。かなり厳密に、徹底してルールは守られています。
仮に何かを買って、お金が10倍に増えたらどうでしょう?
(・ω・)?
あなたは、どんどん買い物を続けるかもしれません。いくら買ってもお金が増えて行きます。すると何かを手に入れる喜びは失われます。もういくらでも手に入るので、反対にもういらないと思うでしょう。
のどか渇いたときに飲む水は、とても有難く美味しいです。でも、10㍑、100㍑と、飲め飲めもっと飲めと水が溢れてくると、もうやめてくれと叫ぶでしょう。それと同じことになりますね。お金なんかなくなればいいと感じるかもしれません。ゲームの破綻が起きます。
でも、お金のルールはかなり厳密に守られているので、そんなことは起きません。
お金以外でも、ルールはものすごく厳密に守られています。ある日、家のドアを開けたら、外がアフリカの草原になっていたと言うことは起きません。ラーメンを食べようと思ってお湯をいれたら、お寿司になったということも起きません。この現実世界のルールは、かなり厳密に徹底して守られています。
(`-ω-´)
ゲームを楽しむために、規制とルールがあり、その中での「苦」があります。規制とルールを撤廃すると、「苦」も消失します。「苦」が消失したならば、
「歓喜」
も、わからなくなります。
楽しいうれしいといった、ゲームのおもしろさも消失しますし、もはやゲームとしては成り立ちません。破綻します。
(´・ω・`)
だから、「規制とルール」を設定して、
「苦」をつくらないといけない
のです。
あなたは「苦」をつくらないといけないから、つくったんですよ。自らつくったんです。人生をおもしろく楽しいものにするために、わざわざ規制とルールをこしらえて、そこから生じる「苦」をつくんたんです。
(^ω^)
それを見て体験して楽しんでいるのです。そのことに気づいてください。よく注意して、この「苦」が、自分が望んでいるものであることに、気づいてください。
ただ、
「規制とルール」(・∀・)ノ
家のドアを開けたら、アフリカの草原にはならないという規制、これはいると思います。
でも、
お金を使ったら減るとか、
気持ちが通じ合わないと仲良くなれないとか、
これをしたら、またはしないと病気になるとか、
そういう「規制とルール」は、
いつまでも必要か?
という話になってきます。
ああ、書くの疲れた。続きは次回。
( ̄ー ̄)ノ
道端の木
@兵庫県姫路市
WBCもオータニさんの独壇場で、最高の結果で終わりましたので、また、ぼちぼち記事を書いていきましょうかと。
それにしても、まるでオータニさんのために大会をしたみたいでしたね。
(^ω^)
人生は野球のように「ゲーム」だと見ることもできます。
この「意識」の中で展開するゲームです。
(・∀・)
ゲームなので、なんでも思い通りにスイスイと事が運んでしまうと、ちっともおもしろくありません。真剣味も薄れます。途端につまらなくなってしまいます。
やっぱりなかなか達成できなかったり、些細なミスで大きく展開が変わったり、とても越えられなそうにないピンチが出現したりと、困難が次々にやってこないとゲームとしてはおもしろくないんです。
つまり、私たちは、「苦」を「意識」の中にわざわざ作り出して、それを楽しんでいるんです。
そもそも、まず「苦」がないと、楽しいやうれしいといった「歓喜」もわかりませんし、「苦」はゲームをとても味わい深くおもしろいものにする、必要不可欠な要素です。
ゲームを楽しむには
「苦」をつくらないといけない
わけです。
そして、「苦」をつくり出すには、何か規制やルールが必要です。
(・∀・)ノ
例えば、高校野球は高校生しかできないという規制があります。高校生同士がやるから、ゲームになります。高校生とメジャーリーガーでは、ゲームになりません。
また将棋の駒は、それぞれ動き方が決まっているというルールがあるからゲームになります。どの駒も自由に動けたら、そんなもん将棋になりません。きっちりと厳密にそのルールを守らないと、ゲームになりません。
そして、この人生という「ゲーム」も、規制とルールがあって、それらは厳密に守られています。
例えば、働いたり、何か買ったりして、お金が増えたり減ったりします。これはとても厳密なルールに乗っ取ってプレイされています。何か買い物をすると、お金が減ります。買い物をしたら財布の中身が10倍になったということは、まず起きません。それどころか一円も増えません。かなり厳密に、徹底してルールは守られています。
仮に何かを買って、お金が10倍に増えたらどうでしょう?
(・ω・)?
あなたは、どんどん買い物を続けるかもしれません。いくら買ってもお金が増えて行きます。すると何かを手に入れる喜びは失われます。もういくらでも手に入るので、反対にもういらないと思うでしょう。
のどか渇いたときに飲む水は、とても有難く美味しいです。でも、10㍑、100㍑と、飲め飲めもっと飲めと水が溢れてくると、もうやめてくれと叫ぶでしょう。それと同じことになりますね。お金なんかなくなればいいと感じるかもしれません。ゲームの破綻が起きます。
でも、お金のルールはかなり厳密に守られているので、そんなことは起きません。
お金以外でも、ルールはものすごく厳密に守られています。ある日、家のドアを開けたら、外がアフリカの草原になっていたと言うことは起きません。ラーメンを食べようと思ってお湯をいれたら、お寿司になったということも起きません。この現実世界のルールは、かなり厳密に徹底して守られています。
(`-ω-´)
ゲームを楽しむために、規制とルールがあり、その中での「苦」があります。規制とルールを撤廃すると、「苦」も消失します。「苦」が消失したならば、
「歓喜」
も、わからなくなります。
楽しいうれしいといった、ゲームのおもしろさも消失しますし、もはやゲームとしては成り立ちません。破綻します。
(´・ω・`)
だから、「規制とルール」を設定して、
「苦」をつくらないといけない
のです。
あなたは「苦」をつくらないといけないから、つくったんですよ。自らつくったんです。人生をおもしろく楽しいものにするために、わざわざ規制とルールをこしらえて、そこから生じる「苦」をつくんたんです。
(^ω^)
それを見て体験して楽しんでいるのです。そのことに気づいてください。よく注意して、この「苦」が、自分が望んでいるものであることに、気づいてください。
ただ、
「規制とルール」(・∀・)ノ
家のドアを開けたら、アフリカの草原にはならないという規制、これはいると思います。
でも、
お金を使ったら減るとか、
気持ちが通じ合わないと仲良くなれないとか、
これをしたら、またはしないと病気になるとか、
そういう「規制とルール」は、
いつまでも必要か?
という話になってきます。
ああ、書くの疲れた。続きは次回。
( ̄ー ̄)ノ
道端の木
@兵庫県姫路市